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私の話を聞いて下さい

自主避難者である「しすたー」の想いや考えを伝えます。

ゆがんだ視線の持ち主誰だ

原発 避難

今日は福島民友の記事についてです。

 

生徒たちの視察に対し、インターネット上などで数多くの批判が上がった。被ばくを懸念する意見のほか、「東電が見せたい物を見るだけ。東電の安全PRに利用されるだけだ」「どういう意図的な発信をするつもりでマスコミを同行させたのか」と非難された。

 「生徒たちにとって、一定の覚悟を要する活動だった」と早野は振り返る。偏見に打ち勝とうと、廃炉の実情を知ろうとする若者たちの行為さえも「東電のためにやっているのでは」などとゆがんだ視線にさらされる。

 それでも、福島の若者を対象とした視察事業は広がりつつある。福島大は新年度から、第1原発視察を教育に取り入れる。事業を担当する准教授の高貝慶隆(40)は「東電だけの一方的な情報に偏らないよう、専門家など第三者を招いた講義を行い中立性を保ちたい」と話す。

以下リンクから引用

www.minyu-net.com

 

混同させるなと言いたい

まず、問題なのは子どもたちではない。子供に罪はない。

非難の矛先を間違っているひともいるかもしれないから、ここではっきりさせたいのだが、非難されるのは子どもたちではない。

 

あの事故のとき、真実を東電と一緒に隠したのは一体どこのマスコミだったのか。

避難することがまるで悪いことのように扱った。

心配することが悪いことのように扱った。

 

私だったら

私だったらあったことを全て話す。

本当のことを。今起こっていること、私達若者が今何を思うのか。

綺麗事なんて言わない。

安全だなんて思ってない。

 

人は差別するとき、同時に恐怖を覚えている。

見たくない。信じたくない。知りたくない。受け入れたくない。

 

不安になるのはアタリマエのこと。

 

だって、わからないことが多いのにもかかわらず。

 

福島に住んでいた当時15歳の少女はもう21になって、いま、北海道にいる。

子どもたちに大人のエゴを押し付けるのは辞めてほしい。

 

歪んでいるのはどっちだ。

 「生徒たちにとって、一定の覚悟を要する活動だった」と早野は振り返る。偏見に打ち勝とうと、廃炉の実情を知ろうとする若者たちの行為さえも「東電のためにやっているのでは」などとゆがんだ視線にさらされる。

 それでも、福島の若者を対象とした視察事業は広がりつつある。福島大は新年度から、第1原発視察を教育に取り入れる。事業を担当する准教授の高貝慶隆(40)は「東電だけの一方的な情報に偏らないよう、専門家など第三者を招いた講義を行い中立性を保ちたい」と話す。

 引き続きリンクより引用

 

そのゆがんだ視線というのは誰から見てゆがんでいるのだろうか。

被曝許容量なんてない。

その許容量に大幅にたっしてから病気になる人もいるし、

一方それよりも低い被曝量で病気になる人だっている。

 

一定の覚悟というのは彼らにとって必要な覚悟なのだろうか。

一体どんな覚悟を必要とされたのだろうか。

 

偏見に打ち勝つというのはどういうことだろうか。

なぜ偏見が生まれているのかということを考えなければならないと思う。

私は自身の経験をもっと発信しなければならないと思っている。

 

結局、子どもたちになにを言わせたいのか。

この事故は子どもたちを原発に向かわせることで何か解決するのか。

ここで問題視されている偏見がなくなるのか?

 

・・・それこそ何かずれている、ゆがんでいると感じるのは私だけなのか。。。

今の日本人にこれを問うのは何かまちがっているのかもしれないが。。。。

 

私にとって学ぶこと、知ることの意味。

日記 自己啓発

こんばんは。

今日は頭を空っぽにしてすごしました。
そういえば頭を使わないで休ませることで、(ぼーとすることで、)あたらしい発想が生まれたりするそうです。
 
あまり一つのことにとらわれすぎても、そこしか見えなくなってしまって本末転倒ということもあります。
 

私が考えをまとめるときにしていること。

私は短期記憶が苦手なので、紙に書き出しています。また、手帳をつかって自分のやりたいことをまとめています。マインドmapをかいたり、want to listにしたり。
 
大切なのはやるべきことではなくて、やりたいことをまとめること。そして、それが人と人との関係において不公平性や価値観、考え方の二元化を生むことのないようにする必要があります。
 
なぜなら、不公平性があってはまた、憎しみや悲しみが生まれてしまい、弱者が結局減らないということが歴史的にも繰り返されてきたからです。
 

学ぶこと・知ることの意味

 
この国は、歴史から学んでいないことが多くあると思います。そしてまた、恥ずかしながら、私も知らないことがたくさんあります。
 
日々学ぶことがたくさんあります。
学ぶことで悲しくなったり、辛くなったりすることもあります。しかし、知ることで解決策をより具体的に考えることができます。
 
無知によって悲しむ人、苦しむ人を増やすより、知ること学ぶことで喜ぶ人、楽しむ人が増えることを私は選びたいです。
 
マザーテレサは言いました。
愛の反対は無関心だと。
 
ただ、関心が一時的にあるだけでは愛し続けることは難しいかもしれません。
関心を持ち続け、知り続け、学び続けることが愛しつづけるために必要なことだと私は考えます。そして、愛しつづけることは、お釣りを出し続けることでもあると私は考えています。(先日の今一生さんの著書についての記事でも触れました。)
 
また、更新します。
いつもよんでくださっているみなさん、本当にありがとうございます。
これからも、よろしくお願いします。
 

再出発する方法を教えてくれた今一生さんの著書

ソーシャルデザイン やりたいこと

こんばんは

今日は、今一生さんの著書を読み終えたこともあるのでその感想と、私が思うソーシャル・デザインについて書こうと思う。

『よのなかを変える技術』・『ソーシャルデザイン50の方法』をよんで

よのなかを変える技術: 14歳からのソーシャルデザイン入門 (14歳の世渡り術) ソーシャルデザイン50の方法 - あなたが世界を変えるとき (中公新書ラクレ)

著者である今一生さんについてはツイッターを初めて間もないころ(高校生の頃)から知っていた。ただ、流れてくるツイートをさらっと見るだけの状態で、まだ著書を読むというところまで考えるに及ばない状況だった。

 

あくまでも名前は知ってる。

ニートとか引きこもりとか、生きづらさを抱える人のことをおっかけてる人。

という認識。

 

著書を読み、まず思ったのは、

よんでよかった。ということ。

 

それは、善し悪しの問題ではなく、読むこと自体に価値があり、自分の人生にとってキーになり得る著書だということがわかったからだ。もっと早くよんでいればよかったという後悔はない。むしろ、今だからこそ、読みたい本。今、求めていることが全て書かれている本といってもいいくらい。

 

分かち合うこと

 

著書をよんでキーワードになっているなと感じたのは、

 

「価値を分かち合う」

 

という言葉だ。

 

私は今一緒に行動を起こそうとしている仲間がいるのだが、

そのうちの1人が出会った当初から言っていることがある。

それは

 

「お釣りをだそう。分け合えば余る。」

 

ということだ。

 

 

私は今一生さんが言っていることと意味は同じだと思っている。

価値を分ける。

それはお互いがWINWINになる関係性であって、誰も不幸になる必要がない関係性のことを意味している。

 

私が今一生さんに最近注目するようになったきっかけは最近デザインについてよく考えるようになったからだ。

 

明治のTheChocolateのパッケージをみたことはあるだろうか。

私はあのパッケージができた経緯が気になっていた。

上司に反抗してまで作り上げたものだというのだ。

これまでは、チョコレートの写真やイラストをつけたり、商品の特徴を大きく印字したりするのがセオリーだったといいますから、社内では「このパッケージでは中身がわからない。売れるはずがない」という厳しい意見も出ました。しかし、事前の消費者調査で手応えをつかんでいた開発担当者は「あなたの年代がターゲットではない」などと反論。発売にこぎつけたといいます。

 以下リンクから引用

www3.nhk.or.jp

 

これは非常に意味があることだと私は感じた。

なぜなら、利用者のニーズにそうデザイン(UX・UIデザイン)は商品の価値を左右するもの。その経緯によっては更に会社に対するイメージまでも左右するほどのものになる。デザイン一つで社会の見る目も変われば、その価値も変化する。デザインの可能性について私は最近真剣に考えていた。

 

そんな中ふとツイッターで目に入った言葉がソーシャルデザインという言葉だった。

しかも、よくよく見てみると、それは今一生さんのツイートだったのだ。

con-isshow.blogspot.jp

 

私はおもった。(というか、ビビッときた笑)

 

あー私がやりたいことってソーシャルデザインじゃん。

 

と。

 

こんなことなんでしないのかな。とか、

なんとかしたいよ!!という問題意識はさんざん持っていた。

 

でも、それをどうしたら人に伝えられるのかもわからなかったし、

どうしたらビジネスとして展開できるのかということもわからなかった。

 

だからといって、会社の経営者や役所の人間に話をきいてもこれと言って明確な答えがあるわけでもなかった。えーそんなの無理じゃないの。若いね、頑張って。と他人事。

 

伝わらない。伝えられない。

そういうもどかしさがあった。

 

指標になる

原発事故があって社会を憎んで、親を憎んで、教師を憎んで、大人を憎んで、

悲しくて、悔しくて、つらくて、なんとかしたくて、社会を変えたいとおもった。

 

でもその前に原発事故をきっかけに見失った「自分」を変えたい。

と思いもがいた数年間。

 

やっと六年。

よし、やれる。と立ち上がった。

 

方向性も様々見えてきたし、自分のスタンスも、やりたいことも、目指したいところも明確化してきた。

 

でも、前に進めない。

そんな私にこの著書は役に立つことを確信している。

 

 

マーカーをいれた箇所を中心にこれからも何度も見直したいと思う。

 

まず、今の私がすぐにしたほうがいいなとおもったのは、

 

仲間を集めること当事者に触れることだ。

 

早速今日から色んな人に改めて声をかけてみたいと思った。

(あーSNSって便利だなとホントに思う。昔と違う。

 

また、これは今被災者を支えるためにNPOを経営しているひとにも奨めたい本だなと感じている。

何をしたらいいのかわからないまま、補助金を得て団体を動かそうとしても無理があるということを支援者もよくよく理解していると思う。

しかし、理解していながらもその解決の糸口が見えていないという団体が多い。

私はそのようなNPOとも関わりを深めたいと考えている。

 

再出発

 

また、繰り返しよんで気がついた事、思うことがあれば、

ソーシャルデザインタグで更新したいと思う。

 

締めくくりに、、、

今一生さん、ありがとうございます。

おかげさまで先に進めそうです(*^^*)

 

 

エゴが招く子供の沈黙

震災 原発 大人 子供

周囲のエゴ

 

自分の障害のこともそうだし、自分の被災した経験でも、「他人に話したくない」「子供が傷つくからやめて。」と言う人が、いる。

周囲の人のエゴが影響してるかもなぁと最近私は思ってる。

 

「他人に話したくない」

 

同情されたくない。

批判されたくない。

パニックになるかもしれない。

分かってくれないだろう。

 

そんな思いが恐らくあるのだと思う。

私もそう思ってた時期はあるし、今も思うことはある。

どれも、共通してるのは自己容認が結局自分自身の中でできていないということだとおもう。

 

必要以上の優しさや手助けは相手の自立には何らつながらない。また、誰かが一生懸命やってるから、それに任せていれば大丈夫。といった甘えが知らず知らずのうちに自分の中に流れてしまうことはよくある。

 

こうした甘えが当たり前になってしまうと、自分がいなければ相手はやっていけない、と自分が相手からあたかも必要とされているかのような錯覚に陥ることもある。

 

被害者または被災者と支援者が各々に自己容認ができていれば相手に過度に求めすぎることもないし、共依存も防げるのだが。

 

被災者だから、被害者だから、障害があるから、支援者だから、健常者だから・・・そういうたぐいの分類みたいなものが結局変な二元化を生むんだろうなとも私は思っている。

話さなくてもいい。というのと、話したくない。というのは全然ちがう。

他人に話したくないということは、自分の中に思いを閉じこめることになる。

子供がいじめを話したくないと思うのはどういう心理なのかを考えてみるとわかりやすいだろう。

それが結局どういう状況を招くのかということも。

 

「子供が傷つくからやめて」

私は原発事故の問題はこのことと何ら代わりないと思っている。

「子供が傷つくからやめて」というのはお門違いだと思うのだ。

そもそもききたいのだが、それ誰のセリフなの?と。本人が本当にそんな風に思ってるの??ってことだ。

もちろん、ねほりはほり何でも聞いて良いとは決して思っていない。

必要なのは相手を尊重する心。向き合う、受け入れる、支える、一緒に考える、という先に進むための提案や対案をすることができるかということだろう。

聞く側にも覚悟がもちろん必要だし、無ければ仮にでも安易に相手を助けたいと思って話を何でも聞いたりしてはならないと私は個人的に思っている。

 

大人のエゴが招く子供の沈黙

 

また、この原発事故の問題もそうだし、虐待やいじめといった問題にせよ、

はなしたくない

ききたくない

と思ってるのは子供の方ではなく、実は大人の方だと私は確信している。

 

これは私の経験上そう言える。

自分にとって不都合なことはききたくない。受け入れられない。言わないでほしい。そういう大人や親が残念ながらこの国は多いと私はひしひしと痛感するのだ。

 

触れ方が分からない。

どう声をかけたらいいのかわからない。

自分が情けない。

そういう自己嫌悪に陥って結局子供のことは見て見ぬふり。

子供もその空気を読んでいるので口にだしたりはしない。

実際何冊もの震災・原発関連の本をよんできたし、ドキュメンタリーも見てきたわけだが、その中でも確かに、仮設住宅で家族が空気的にそういうことを伏せて日常生活を送っているということが記されていたのを覚えている。

 

大人は「生活があるから。いつまでもきにしているわけにも行かない」

と言うかもしれない。

しかし、そこで子供が本当にその問題と向き合う準備を親は出来ているのかということを問いたいのだ。

仮にもこじらせてしまっても、それを受け入れるだけの気持ちが出来ているのかどうかということ。自分なりにその原発なら原発事故の問題についてこどもと話せる準備ができているのかどうか。

 

親のエゴ、周りの大人のエゴは結局子供の足を引っ張る。

私は親と避難後にうまくいかなくなり、共に生活することが困難になり、自分自身の生命の危機を感じたので北海道に逃げた。

 

親は確かに私の事を止めたし、北海道に移り住んだ後も暫くの間はわたしのことを散々いろいろ考えたらしい。

でも、家出をしたのは吉で、私がいなくなって両親はようやく本当に大切なことがなんなのかということを考え始めるようななったようだ。

 

まだまだ、道のりはながいだろうなとは思っている。

でも、私はこれでよかったと思ってる。

 

親のエゴ、周りの大人のエゴは結局子供の足を引っ張る。

これは今一生さんも言っているが、毒親は捨てていいし、エゴを撒き散らす大人に従う必要はない。

 

私が1人の若者として今の大人にしてほしいことといえば、

一緒に今の世の中を変えるために自分がなにが出来るのかということを真剣に考えて、行動してほしいということ。

 

そして今の若者や子どもたちは空気を読むことがとても上手なので、

分かっていても言わないこともたくさんある。

そういう気持ちを吐き出せるような関係性づくりをしてほしいというとこだ。

 

だから、その方法がわからないんだよ!!という方。

まず、自分自身の気持ちを吐き出せる人ってどういう人なのかということをかんがえてみたらいいと思う。それを書き出してみて自分に足りないところを補っていくようにしてみたらどうだろう。

また、自分自身が気持ちを相手に吐き出すことができなければ、相手も同様に自分の気持を吐き出すことはできない。

相手の鏡は自分。

自分の鏡は相手。

 

いろんなことをこうしてみてみると、大人も子供も関係ないのだと思う。

人として生きるということがどういうことなのか。

あくまでも親と子、大人と子供ではなく、

全ては生きる権利を持つ人と人との関わりなのだということだと私は考える。

 

また、次の更新もよろしくお願いします。

(次こそソーシャルデザインの話を・・・・)

糸井重里氏の記事から私が思うこと

ソーシャルデザイン 震災 原発

糸井重里氏について

 

群馬県前橋市出身。生誕後に両親が離婚司法書士であった父親の元に引き取られ祖母に育てられる。その後、実母と1981年に再会した。

小学校3年の時に父親が再婚。幼少時から漫画好きで漫画家に憧れていた。中学時代は北杜夫に熱中した。

群馬県立前橋高等学校に入学。文学青年の友達ができ、アングラ文学などに目覚める。また、バンカラを気取って一本歯の下駄で学校に通った。高校1年の時にバンドを組みたくなり、お金を稼ぐためにオルガンやピアノのセールスマンの下請けとなり10台売ったという。また、文化祭の企画で「ハプニング」的なことをやりたくなり、江戸川乱歩の「赤い部屋」を再現したり、ベトナムの僧侶の焼身自殺を真似たりした。

法政大学文学部日本文学科に入学。1年ほどガテン系のアルバイトをする。その後、法政大学を中退。

学生運動に身を投じ逮捕歴が5回ある[3]佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争中核派メンバーと共に参加。飯田橋駅前で逮捕された。「(エンタープライズの入港は)我々にとって死を意味する」とTBSのインタビューに答える映像が残っており、「筑紫哲也 NEWS23」で放送されたときには「若かったですね」と猛省している。

 

 ウィキペディアより抜粋・引用

 

www.buzzfeed.com

 

言葉・デザイン・・・・私にできることは・・・

 

私は個人的には糸井氏のことは結構好きだ。

福島や被災地をデザインすることや言葉の半端さの重要性、また忘れることをゆるすということについて記事にまとめられている。

私は福島や被災地についてはかなり幻滅しているぶぶんが多い。

これはマスコミの影響が大きいようにも思えるのだが、どうしても買って応援、食べて応援の姿勢が拭えないなと思うのだ。

デザインというのは人の考え方に大きな影響を与える。

 

どんな街にしたいのか。

だが、それは汚染されているということも加味した上でのデザインが必要で、私だったら何もあえて手を加えないことを望むかもしれない。

 

言葉は完璧でなくていい。

完璧主義過ぎて、本当に大切なことが見えなくなる。言えなくなる。

何かすごいことを言わないと認めてもらえないんじゃないかと思うようになる。

そういうことを糸井氏は懸念しているのだろう。

 

選ばない言葉。

いいたくても言えない言葉。

そういう言葉を私も大切にしたい。

 

でも、私は汚染地に対しての応援には加担したくないし、

私は私のスタイルでソーシャルデザインしたい。

 

次回はソーシャルデザインについて更新したい。

 

早野龍五氏に関する記事より2

仕事 原発

外部被曝だけのお話・・・????

よんでみると分かるのだが、土壌の汚染度を測ったわけではなく(ベクレル)線量計を当てて測ってみたということと、外部被曝がどのくらいなのかということをまとめたものであるということが分かる。

 

外部被曝でまさか安全だといいたいということだろうか。。。

風向き的に各県にもホットスポットがあるのにもかかわらず、、、。

様々突っ込みたいところなのだが、

これこそ勘違いを多くの人がするのではないかということが懸念される。

外部被曝だけで病気になることは相当の線量を浴びたことを意味する。

内部被ばくを無視して安全だと語ることは本当に難しいこと。

 

二週間のデータ

データとしては重要かもしれないが、それを県全体のデータとしてまとめるには無理があるだろう・・・。あくまでも、福高にいる生徒の外部被曝についてであればまとめることは可能だろうけど。

 

全体論として語るに無理がある。

 

高校生の論文ということもあるのでそこまで突っ込みたくないのだが、

これは早野氏も関わっていてのこと。

 

どちらが先に依頼したのか、どういう流れで論文を書くことになったのかという経緯について不明な点が多いのも私としては気になる点だ。

 

福島県以外の方に分かるように説明すると福高というと福島では上の方の進学校です。

この高校の生徒が研究した内容なら間違いないし、あーすばらしいね。と県内なら認識する方もいるくらいの学校です。

www.buzzfeed.com

 

伝統になるのは本当のことを伝えるという姿勢。

 

私が必要だと感じているのは若者の声です。

 

声なき声発すること、拾い上げること、

不安だ、辛いといった思いが日本に世界に伝わることなのです。

 

安全だということが伝わることが目的ではないのです。

原発事故の事でHELPを出せなくて自死した子、音信不通になった同年代の友人が私にはいます。

 

間違った思い込みが広まり、被害が増えること、また思い悩んで自死に至る人、引きこもる人を私はこれ以上見たくないですし、増やしたくないです。。。

 

私が今すぐにできることはこうして福島はじめとする汚染地域から出たいと感じている若いひと、悩んでいる若い人への情報発信です。

 

また、このブログを読んでいる親世代のひとが何かを感じてくだされば幸いだと思っています。

 

また更新します。

 

 

 

早野龍五氏に関する記事より

原発

こんばんは。

 今日は以下の記事を取り上げたいとおもう。

この記事を見つけたのは結構前なのだが、言いたいことがありすぎて文章がまとまらなかった。

というのも、まとめる前に怒りや悲しみ、虚しさがこみ上げてきてしまって感情が先にでてしまって書くどころではなかった(^_^;)

 

科学者だから・・・?

 まず、早野龍五さんはどういう人物なのかということから取り上げたほうが良さそう。

岐阜県大垣市生まれ。長野県松本深志高等学校東京大学理学部物理学科、東京大学大学院理学系研究科を経て1979年より東京大学理学部付属中間子科学実験施設助手。1982年に高エネルギー物理学研究所助教授、1985年東京大学理学部客員助教授、1986年に東京大学理学部物理助教授、1997年より東京大学大学院理学系研究科教授。2000年肺がんが見つかり右肺上葉の摘出手術を受ける。

2011年3月、東日本大震災に伴う福島第一原子力発電所事故に際し、自身のTwitterから独自に分析した主張を発信する。後に、早野を中心とした東京大学の学生・大学院生によるチームの設立、一般社団法人サイエンス・メディア・センターによるウェブサイトの開設、東京大学医学部附属病院放射線科放射線治療部門の中川恵一准教授を中心とした「チーム・ナカガワ」による発信などとなって行った。

ウィキペディアより抜粋・引用

私がうーと思わず唸ってしまったのは、彼がガンを患っていたということである。

この原因については恐らくはっきりとしていないのだろう。

でも、可能性として、彼が核の研究をしていたことも視野にいれると、もしや・・・と疑ってしまう私がいる。そして、うーとうなりたくなる。

 

なぜなら、研究を行い、何らかの原因でガンを患った彼の口から福島の子どもたちに対して発された言葉、そして言動には科学者・研究者・経験者としての立場から発せられた言葉としては疑問符がつきまとうように感じるからだ。

 

 

年間1mSv超えるか超えないか・・・?

子供が産めるのか。

私はこれについては分からないと答えるだろう。

自分の子供になにも影響が出ないのかと聞かれれば尚更それは分からないというしかない。

チェルノブイリ周辺(ウクライナキエフ等)でも産んだ子供がすぐに亡くなったり、また慢性的な病気をもつ子供が増えたという統計がある。

福島のものを食べても大丈夫。

その根拠は一体何なのかと問いたくなる。

物理学的に考えて内部被曝は抑えるにこしたことはないし、それにしても被害が出るのかどうかというのはその体自身が鍵を握っているようなもの。変な話「個体差」があるのだから。

老若男女とわずにこれは言えることで、俗にいう生活習慣病にあてはまるひとほど、やはり様々なことがトリガーになって病気になりやすいのは事実。(もちろん、放射能に限った話ではない。)

また、世界の各国と比べることはどうかと私は思う。

国が違えば文化が違う。

もともと、線量が高くないところでいきなり線量が今までの100倍に増えていたらどうだろうか。ちょっと恐ろしい話だと思わないか。

確かに知識を得ること、備えることは重要だろう。

ただ年間1mSv超えるか超えないかということは正直問題ではないと私は考える。

というより、それは本当に超えてはならないところであって、実際に今甲状腺検査だけで考えても線量の多い地域になればなるほどやはりその人数も多い。ではその人達は全員年間1mSvを超えて被爆しているのかといえば、早野氏はそういった人はいないといっているのだからいないということになる。

それでも問題ないと彼はいいたいということになる。

 

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若者に何を託すのか 

記事からの引用です。

測ること、伝えること、被曝について……。最初は、僕でないとできないことがあったと思います。でも、いまはそんなことはもうないでしょう。僕でなくても、できる人はずいぶんと多くなりました。

そう考えるとね、なるべく若い人に託したいと思うんです。高校生との時間がなかったら、僕はこんなに福島に関わることもなかった。何度も繰り返しますが、目標は「自分たちの言葉で福島を語ること」。だから、彼らに託せるものは、託したい。いまはそう思っています。

託す。。。

私は本当に虚しいなと思う。

若者に託していいものの分別がつかない人に託されるのは嫌だなと思う。

 

託す託されるかではなく、あくまでもひとりひとりがどうしたいのかということを「自らが選択できる自由」が本来あるのであって、誰かに頼まれたり、託されたりするような類のものではないと私は考える。

 

ただ、この国は「自らが選択できる自由」は本当に少ないし、その権利すら今の政権は特にどんどん排除しようとすらしている。

海外メディアではよくそのことが取り上げられているわけだが。。。

 

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ひとまず、長くなってしまうと思うので第一弾はここまで。

早野氏が言葉選んでるのはすごく伝わってくるのだが、

なんか違うよなとおもう。

 

ドアを叩かなければ開かぬ扉はどうして開かないのかを考えた方がいいし、

ある日いきなり開いたならそれはそれでどうして開いたのかは考えたほうがいい。

 

忘れてはならないのは東電も国も原発事故についてはとにかく触れたくないし、

国民に本当のことをいいたくない体質だということ。

 

次の更新に続く。