原発事故で自主避難した私の生き方

福島からの自主避難者である「しすたー」の想いや考えを伝えます。

自分の過去の日記を見て 自分への手紙

長文

おはようございます。

昨晩、自分の過去の日記を読んでいました。

中学生の時からの日記があるので、それを含めてあの日からの日記も合わせて読みました。

 

気がついたのは、

私ってもともと自信ない子だったんだなということです。

自分に甘いって思っていて、もっと厳しくしなくちゃって思ってたみたいです。

 

長文になります。

でも最後の最後に大切なお知らせがあるので是非読んでいただきたいです。

 

今の私が私に言いたいこと。伝えたいこと。

 

別に勉強ができることが全てじゃないよ。

もちろん、夢があって、そのために頑張ってるのは分かる。

でも、無理しないっていうこととか、

失敗を恐れずに頑張るための前向きさみたいなものを習得できたらいいんじゃないかなって思うよ。

 

生きることってなんだろうって一生懸命に考えてて凄いなと思うよ。

生きることってね、信じることなんだよ。

自分の内なる力もそうだし、世の中を作った大いなる力を信じることなんだよ。

 

愛することだよ。

この世に生まれ落ちてきたのは体をもって、

愛することの素晴らしさを享受するためでもあると私は思うんだよ。

 

愛されることの素晴らしさでもあるね。

 

でも、それにしがみつくのは違うんだ。

 

失いたくない、自分だけのものにしたいっていう気持がたくさんあふれるときってあるんだよ。それは恋人だけじゃない。お金だって、権力だって、成績だって、なんだってそうだよ。故郷だってそうだ。

 

失いたくない。ずっと自分だけのものにしていたいって思っちゃうんだよね。

私だけを愛してほしいとかさ。

私だけが愛するみたいなね。

 

でもね、それってすごく制限のある愛なんだ。

もちろんそれも必要なときもある。

それが気持ちが良かったりするからね。

「自分だけのものにできた」「守り抜いた」

みたいな征服感みたいなものが出るんだろうね。

 

でも、本当に大事なのはそこじゃないんだよね。

分け合えば余るんだ。

与えることが必要なんだよ。

貪って、奪うことしか考えられなくなったり、執着してしがみついたりしてしまうんだ。それってすごく盲目的なんだよ。

 

例えばね、2011年3月11日には大変なことが起こったんだ。

大震災と原発事故。びっくりしちゃうよね。

たまたまさ、日記が3月9日で一旦止まってるでしょ。

数ヶ月前に私は異変に気がついてたね。

なんか腑に落ちないって。

志望校が一歩先に決まって、落ち着いたはずなのになんかあるって日記に書いてたもんね。3月8日にもとうとう、なんか変って日記に残してるし。

うん。正解。さすが勘が鋭いね。

 

それをきっかけにしてね、福島から逃げるっていう選択をする人と、そうでない人がでてくるんだ。

 

執着してしまって、いろんな社会的しがらみとか、常識とかにとらわれてしまっていた人たちは残ってしまうことになるんだ。

 

うちはね逃げる側になる。

 

それで私はすごく気負いすることになるんだ。

 

ごめんね。ショックだよね。

ぎゅー・・・・・。本当にごめん。

辛いよね。

というか、辛かったよね。

 

でもね、、、

これはやっぱり試練だったんだって思うんだよ。

すごく重い試練だと思う。

人の生死に関わるし、人生が変わる転機になったんだ。

 

当時、彼がふとメールで

神は乗り越えられる人にこそ試練をあたえます。

って書いたでしょ。

 

あれね、本当だった。

 

乗り越えられるかどうかを判断したかったんじゃないかな。

すべての人に対しての試練だね。

人間に対するというより、すべてのものに対する試練だね。

 

そういうたぐいの試練だったんだ。

これを人間の体をもって体験したことは非常に大きかったと思う。

 

人の黒いところがたくさん見えたんだよ。

そういう黒いところがあるなっていうのは中学生の時から知ってたよね。

それこそ、小学生の時からかな?

でも、やっぱり、大人は絶対だって思ってたよね。親も。

知らないうちにしたがって当たり前、神聖視みたいなことになってたよね。

疑問に思いながらも腑に落ちなかった。

自分の人生を生きているのに、なんか腑に落ちないっていう気持だったんだと思う。

 

これはね、日本の教育も良くない。

本当のことを教えてくれていなかったんだ。

本当のこともあるけど、嘘もたくさんついてたんだ。

ある意味人間らしいと言えば人間らしいのかもしれない。

アダムとイヴだよね。

本当はね、本来は神様はこういう人を望んだわけではなかった。

悔いていたんだよね。だから、ノアの箱舟の下りになるんだけどね。

 

人間はたくさんの知恵を身につけることによってその本来の人間性を失ってしまったんだとも言える。本当に正しく、必要なことだけの知識ならいいんだけどね。そうではないみたいなんだよね。

 

常識ってそのくらい私達のことを侵しているんだよ。

辛いね。だって子供はそれを望んでいるわけではないんだよ。

自分から常識知りたい!と思って生まれてきた子なんていないんだから。

 

最近気がついたんだけどね、

自信を持つことって、自分を信じることなわけだけど、

直感で生きる、感覚で生きるっていうことなんだよね。

自分のfeelingを信じることなんだ。

 

信じることってそういうことなんだよね。

 

別に苦行することが大切なんじゃないんだ。

いや、たとえばね、自分の直感的に選んだ道が苦行の道ってことはあるかもしれない。

でも、それって選んだのは間違いなく自分だ!!って言えるでしょ。

だから、あんまり辛いって思わないんだよね。思っても、自分で選んだし、納得してる。って言えるんだわ。不思議だよね。

でもね、

なんとなくこれなんだけどさ、お金がないよ。とか、

なんとなくこれなんだけどさ、仕事にならんよ。とか。

けどさ・・・の後が要は理屈ってやつかな。

 

そうじゃなくて、自分がこれだ!!って思うことをやってみて、

失敗したら、また、その時は考えればいいし、

成功したら、そのまま乗っかればいよ。

 

直感的にだから選択ミスってこともたまにはあるんだ(^_^;)

でもね、厳密に言うと選択ミスではないんだな。

直感に従って選んだものには全て意味がある。

ちゃんと必要な学びがあるんだ。

直感でなくて理屈で選んだ場合ももちろん学びもあるんだけど、

それはやっぱり限りある学びになりやすいんだ。

 

直感に従って生きること。

真理に従って生きるってそういうことだと思うんだよ。

だから、運も実力の内って言うでしょ?

正にそういう概念だよね。

 

あ、勉強したほうがいいなって思った時にやったほうがいいんだよ。

今はこれやったほうがいいなっていうことに従ったほうがいいことあるんだわ。

いいことというか学びがあるって言えばいいかな。

 

迷ったらね、それをしたいのかしたくないのかで考えてみるのもいいかもしれない。

 

そうするとね不思議とすんなーりと答えが出る時あるんだよ笑

 

だから、大丈夫。

自分をあんまり厳しくしようって思わなくていいんだ。

でも例えば、直感的に「片付けたほうがいいかな?」と思ったのに、

「でも、面倒くさいしなー」「でも、時間無いしなー」っていうのは次元が一気に低くなっちゃうんだわ。

 

直感は4次元かな。インスピレーションだからね。創造的なことなんだよね。

「でも、だけど」っていうところは3次元の現実的なお話。要は常識臭いこと笑

 

もっとね、感覚的になっていいよ。

人はそれをいい加減なやつだとか、ふわふわしてるっていうかもしれないけど、

そうじゃないんだわ。

 

必要なことなんだ。

 

あの日の後私が3年間経験してきた時間は非常にふわふわしていたんだ。

母親にも指摘された。悪い意味でね。

だから余計に傷ついちゃったよね。

かわいそうに。。。

母親は現実にとらわれがあるひとかな。

でも、宗教も一応触れているね。

不思議だけど、多分、自分もふわふわしてるところがあるから余計に自分を見ているようで嫌になったのかもしれないよね。囚われを拭いきれないから、そこに安住することを望んでしまっている。それでいい。って思ってしまっているからね。

 

話をもどすと、ふわふわしていた自分をもっと自分で肯定出来たら良かったね。

でもそれって難しかったよね。

当たり前なんだ。ペースが早すぎたよね。急展開しすぎて、びっくりしちゃって魂と心と体が乖離しちゃったよね。

 

時間差が生まれてしまったんだ。

だから、当時の私はすごく過去にもどりたかったんだよね。

苦しいから。

時間差を埋めるためには見えない未来より、見えてる過去に生きたかった。

当たり前の感情だね。

でもそれは心の声だよね。

魂的には次の次元に飛んでたから、ふわふわしてたんだろうね。

 

辛かったね。。。。

 

でも、神様も流石に見てられなかったのかもしれないよね。

人が傲慢に満ちてしまっていたから。

気がついてほしかったのかもしれない。

 

ゆっくりでいいんだっておもって、高校の途中から気持を入れ替えた時があったよね。

あのへんで変わりだしたんだよ。

砂時計がゆっくりとまた落ち始めて、乖離がもどろうとし始めた。

 

でも、心が過去にとどまろうとしちゃってしがみついたりしたこともあったね。

 

だから、浮き沈みもあのころピークで、心療内科にも行ったね。

あれは辛かった。

 

でも必要な過程だったんだ。

 

それから、愛についてね。

愛は信仰心だよ。

神に対しての信仰心と同じ。

無償の愛なんだよ。

本当に美しいよ。

とても静かで熱い愛と言えばいいかな。

 

祈りを捧げるんだ。本当に。

ずっと幼い頃からやってきたことでもあるよね。

それをすべての人に向けるんだ。

 

全ての囚われをなくしてね。

 

難しいよ。

 

私が必死に探した答えだよ。

ちゃんと見つかった。

ありがとう。

辛かったね。

 

失うものもたくさんあったし、戸惑って過ちも犯したね。

つらかったよね。

乖離があったから余計に辛かったと思うんだ。

 

体と心と魂がバラバラで、時間差があったり、泣いたり、喚いたり、苦しんだり、

たくさんのことがあったね。

 

でも、それも、必要なことなんだ。

もう、ほとんど無くなるよ。

 

大丈夫。もう、1人じゃないよ。ずっとそばに居てくれる存在に気がついたんだから。

 

もう誰かに依存する必要もない。

 

よかったね。

一通り、終わったよ。

 

心配なことはあるかな?

これでよかったのか?もちろんだよ。よかったんだよ。

震災があって、原発事故があってよかったって意味じゃないよ。

そうじゃなくて、自分が歩んできた道はそれでよかったんだよ。

早かったほうだよ。よく、死なずにこれたね。

偉いよ。本当に。これからはもっと自分のこと信じようね。大丈夫だから。

 

後はもう、心配いらない。

自分の道を歩もう。

 

時間差はなくなったはずだよ。

まだ、なれるのに時間がかかるかもしれないけど、

自分の直感を信じよう。もう、私は過去の私ではないんだ。

 

あのね、

震災と原発事故後のいろんな写真家の写真を見たんだけどね、

全てが流されてしまっても、

汚染されてしまっても、

緑は、命はまた生まれるんだ。

その美しさというか強さがそこにはあるんだよ。

だからね、不謹慎かもしれないけど、

私はその写真を見て感動してしまったんだ。

美しかったんだ。

 

ジブリもののけ姫ナウシカのラストシーンを彷彿させるよね。

人が犯してきた過ちを再生するかのように、

そんなことにも屈しないほどに美しく強く、しなやかに生きようとしている。

守りたいし、愛したいって思えるんだよね。

生きとし生けるものをね。

私に何ができるかなと思うんだよ。

農業だけが全てじゃないってことも知ったしね。

やり方は色々あるんだわ。

その手始めのことをとうとう私ははじめたわけだよね。

自分を愛するためのことがめぐりめぐって誰かにわたって愛がつながっていくように。

そういうメッセージを伝えたいって思うんだよね。

 

大丈夫、ようやくだけど学び取れたよ。

前に進めそうだ。

一緒に生きようね。生きててくれて、本当にありがとう。

 

 

p,s

 

読者の皆様へ

先日、ネット上でお店をはじめました。

ふぃーりんぐCATというお店です。

右側にリンクをはっています。

一応下にも載せます。

 

長らく、トンネルの中にいましたが、自分の生き方が分かって、

ようやく前に踏み出すことができます。

 

皆さんのおかげです。

本当にありがとうございます。

 

是非、今後ともよろしくお願いいたします。

 

feelingcat.thebase.in

 

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自分にとって覚悟とは

自分のありのままってなんだっけ。

こんばんは。

今日も自己反省と自己メンテ。

自分のままで話をするというのは本当に難しいとずっと思っていました。

というのも、自分を信じられなくなった期間がすごく長かったんです。

 

もちろん、今もその節はあります。

 

でも、かなり真摯に自分と向き合えるようになったなと思います。

この数年間私は自分のことをとても蔑ろにしていました。

 

もっと明るくて、泣き虫で、負けず嫌いで、自分の嫌なところもたくさんあったはずなのに・・・。

 

私は過去の自分が思い出せ無いほどに傷ついて来たし、

自然の美しさも受け取れないほど、私の魂は蜘蛛の巣で覆われてしまっていました。

 

私が私を大切にする。

つまり、それは自分にとっての覚悟みたいなものを持つことでもあるんですよね。

これは絶対に譲れないっていう覚悟。

 自分のことは自分でできるところまではきちっとやる。

本当に自分にとってこれは無理っていうことは相手に任せる。

 

自分に対しての妥協がひどくなったのもあの日以来。

自分のことなどどうでもいい。

自分をすごく責めていた。

何で自分だけ逃げてきたんだろう。

笑うことさえ嫌だった。

私がこうやって笑っている間に誰かが被曝してる。

誰かが泣いてる。

それを思っただけで心が引き裂かれそうになりました。

 

そんなことがあるうちに私は私を見失って、もがきました。

 

中学生の時は哲学的なことを考えるのが大好きで、

自分がどうして生きているのかとかよく考えてました。

それこそ、もっと小さいときからかな。

 

自分のことを信じていたし、好きだった。

でも、あの日を堺にして、自分がわからなくなった。

 

私が私を蔑ろにしている

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私は私を蔑ろにしている。

あの日から6年たっても、

やっぱり自分の中にいる自分のことを責めすぎているんだなと思うんです。

必要以上に自分のことを蔑ろにしてる。

 

責めすぎているというより、

ないがしろにすることに馴れてしまったといえばいいかな。

 

勉強することは楽しかったはずなのに、

どうせこんなことしても無駄なんだって、

報われやしないんだってあの日に思ってしまった。

 

それは最初は、自分の志望校に既に合格が決まっていて、

行く先がキラキラしていることをすごく感じていたから。

だから、行けなくて落胆した。

一ヶ月しか行けなかったから。

 

でも、そのあと思い知ったのは勉強なんかしても、

放射能地震も防げないんだなってことだった。

誰も救えないし、分かってもらえない。

権力でなんでも世の中は結局支配されてるんだと思ったら、

高いキャリアなんていらないって思ってしまった。

 

そういうこともあったけど、

時間軸的には、自分がまずペンも持てなくなって、

文字がかけなくなって、

言葉を話すのにとても労力を使って、

毎日のように眠気が続いて、

夜中も幻聴がひどかったことがはじめだったと思う。

毎日PTSDで苦しんでた。

授業中に緊急地震速報が鳴ったり、揺れていたり、そんなことばっかり私の頭の中でいっぱいになっていた。

 

真っ暗だったなと思う。

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夜、うわ言のように言っていたのは、

「愛って何・・・・」

 

ということだった。

成績が悪くて、両親からの私に対する扱いが一変。

親も色々心配だったんだと思う。

親も自分の整理がついていなかったんだろうなと思う。

と言うか整理したくなかったのかもしれない。

日常に埋まってしまって、もう何も考えたくなかったのかもしれない。

 

でも、私はそうなりたくなかったんです。

 

両親からの愛情を理解できなくなって、

自分が否定されているような気がして、毎日寂しくなった。

 

帰宅するのも嫌になって、苦痛だった。

 

愛が欲しくて、

愛を失いたくなくて、

過ちも犯しました。

 

大したことじゃなかったのかもしれない。

仕方がなかったのかもしれない。

 

でも私の中ではまだ整理ができていないことの1つでもあります。

多分、大きなキーになると思ってます。

 

今だからこそ、きっと理解しなくてはならない事があるんです。

 

覚悟とは

覚悟をもつ。

私には今まで取り敢えずと思って流してきた事項があります。

それは多分この6年に集約されているんです。

私が思い出したくないと放置してきたこと、

自分のほんとうの姿と向き合うのが怖くてしてこなかったことがあるんです。

 

でも私はそれをするタイミングが来たのだと今よく理解しています。

たくさん泣くかも知れないなーと。

でも、それでいいんだと思います。

私が私を蔑ろにしてきた事で失ったものがそれほど大きかったということなんです。

 

私はゆっくりではありますが、過去の自分と今の自分との時間的距離を埋めようとしているのだと思います。そして、いつの間にかそれも目の前のところまで来ているのが分かるのです。

 

私の中で再生が始まったのはあの日から3年後でした。

つまり、それから3年で私は取り戻しはじめているし、

昔の自分よりももっと成長した自分になろうとしている。

それは私にとって非常に恵まれているし、幸せなことなのです。

辛いけど、乗り越えるべきものなんです。

 

相手への想いは自分への想い:自分への想いは相手への想い

私の場合は後者ですね。

相手のことは”優しくしている”のに、自分にその想いが何にも反映されてない。

だから、人から見ておべっかに見える。

自分のことを蔑ろにしてきて麻痺して分からなくなっているんです。

 

真摯さがなくなっていたのです。

自分に対しての真摯さがなくなっていた。

だから、受け取った側も心からの言葉として受け取れない。

そういうことがあったのだと思います。

 

怖かったんです。

自分に対峙するのも。

相手に対峙するのも。

 

結局怖がりな私は何もできなかった。

でも、当時の自分にはできなかったことだし、これは他者から指摘されても気が付かなければ気が付かないでしょう。

 

自分に同情していたのかもしれません。

妥協していたのかもしれません。

 

でも、そこで、自分がかわいそうだと、逆にちゃんと受け入れて挙げられればよかったのかもしれない。そういう素直さがなかったんですよね。

 

辛かったよねと自分に言ってあげられなかった。

それが私の弱さだったのだと思います。

 

気がついてあげられなくて、本当にごめんね・・・って思います。

 

 

やらない理由・出来ない理由を探しをして自分を貶めている

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自分に同情した私は、やらない理由探しと、出来ない理由探しをしました。

今もその傾向があって、だからそういう示唆をする啓示的なことがあったのだなと今だとよくわかります。

自分の特質や性質に甘えて、出来ないことはあたりまえ、辞めるのも当たり前、みたいな感覚があったんです。

 

でも、今だとよくわかります。

そうじゃないんですね。

自分がそういう特質だと理解すると言うのは開き直りではないんです。

そうではなくて、ではどうしたらいいのかという事を考えるほうが重要なんです。

 

やれなくなったから、できないから、ってんじゃあ、何で出来ないの?やれないの?ってもっと深く学びを得ることをしてこなかった。

 

もちろん、できないときもある。

仮に、あの時、もっとまずは自分を受け入れる、その時の感情にしっかりと浸りきるという作業をしなくちゃいけなかった。

 

変な話、自分で考えて頑張りすぎちゃったのが良くなかった。

もっと誰か頼れる人がいたら・・・

泣かせてくれる誰かがそばにいたらもっとちがった・・・

 

今は1人でいても決して一人じゃないって思えるんです。

いろんな存在が私を支えてくれています。

だから大丈夫。泣いても大丈夫って思えるんです。

だから、今夜は自分を泣かせてやろうって思ってるんです。

受け入れたいなって。

どんな自分でも。

こころから魂の底から愛してあげたいって思うんです。

 

 

私の本当に向き合わなくちゃいけない自分とは

真摯じゃない自分。

自分を蔑ろにした自分と向き合うということになるのですが、

それはちょっと漠然としてます。

 

いい加減にしちゃうことまでゆるして、

自分の首を締めたのは私。

 

そういうことに気が付かなかった自分と向き合う。

 

難しいな・・・。

私ってなんだっけ。

私とは。そういうワークをしないといけない。

 

他者から見た私も、私が知っている私も全部私。

必要なパーツ全部集めて、私。

 

自分が好きなんてナルシズム??それは違います。

自分を大切にすること。

甘ったれの自分も確かに私。

でも、それを手放す時が来たんです。

 

自分に甘えてたら、甘やかされる。

もっと自分に真摯になりたい。

そのためにまた学ばなくてはと思うのです。

 

でもちゃんとするというか、、、

あーちゃんとできてなかったよねという自分にもOKだしたいなとは思うんです。

今の部屋見て、あーうん笑

できてなかったよねって笑

完璧な私なんていないんだから。

 

大切なのは魂の声にしたがうこと。

 

長くなりました。

読んでくださってありがとうございます。

 

また更新します。

 

信仰心と愛

昨晩のこと

こんにちは。

昨夜、本当に心が震えるような出来事がありました。

私は氷点のラストの流氷が燃えるシーンをイラストにしていました。

さめざめとした青から、赤に燃え上がるような感覚。

それは本当に生命、人生、宇宙、すべてのものに相通ずるような言葉にし難い感情で、絵にすることも難しいと感じていました。

ただ、本当に美しい姿なのだと思いました。

生きていること、ここにいることが心から喜びに感じられる。

悩みなど殆どが些細なものに思えて、どうでも良くなってしまうようなそんな感覚。

 その感覚に浸っていたときでした。

この美しさってなんだろう。。。。

 

信仰心と愛

ふと、綾子さんの夫に対する考え方がより分かる瞬間が来たのです。

本当にすぱーん!!!と。

 

神につかえるように夫にもつかえる。

私にはその意味がよく理解できていませんでした。

自分には自分の考えがあって、私には私の生き方がある。

だから、夫は夫が出来ることが出来ればいいじゃない、と。

でも、綾子さんがいいたかったのはそこではないんだと気が付きました。

 

神につかえるように夫に仕えるという事が

神を信じるように夫を信じるということでもあるということに気がついたのです。

 

綾子さんにとって、光世さんがかけがえのない存在になっていた。

それがどのようなものであるかをはっきりと理解できたのです。

 

神を信じるという信仰心。

神に全てを委ねる。

それは、全ての事への囚われをなくして、神に委ねるということ。

思い悩む必要は無く、自然の法則に従って楽しく生きるだけ。

 

ただ、自分が生きるということにおいて、正しい選択をする。

その時にその選択ができるということは本当に素晴らしいことで、

やはり、それは神様のお守りと導きなのだと感じるのです。

 

自然の法則、地球の法則、宇宙の法則、全て、計画通り。

 

信じることがどれほど難しく、美しいことかと。

 

そして、神を愛することは自分を愛することでもある。

その愛を万人の人に向けることが魂の本当の使命なのではないかと私は昨晩感じました。

 

なんて深い愛なんだろうと思いました。

本当に感動して、昨晩は泣きました。祈りました。

 

祈り捧げる。

自分のすべてを神に委ねる行為です。

 

本当に深いものに気がついた晩でした。

 

あの日失った自分は何だったのか

そして、私はもう一つ、気がついたことがありました。

涙した自分に対して、懐かしさを憶えました。

 

よく、311前は、たくさんの物事に触れ、感動したり、涙したりする、素直で純粋な女の子でした。

 

でも、あの日から、全てが一転しました。

 

美しさも目に入らなくなり、何もかもができなくなりました。

 

それは本当に悲しかった。

 

今思うと、私が本当に悲しかったのは勉強ができなくなったり、文字がかけなくなったり、物事が思い出せなかったり、おぼえられなかったり、、、、ということではなかったのだと思います。

 

私が本当に悲しかったのは、

何も分からなくなったこと。

感動をおぼえなくなったこと。

感性がなくなったこと。

 

つまり、魂が固まって膠着してしまったということが何よりも本当に悲しかったのだと思います。

 

ようやく何かが見えてきました。

 

絵を描くことは私を救ってくれます。

物を作ることは私にとって大きな励みであり、支えです。

でも、これからはきっと何をするにも喜びや感謝を感じるでしょう。

その方向しか求めなくなるでしょう。

もっと素直になれます。

そうだよ!この感覚だよ!と心が喜んでいます。魂がキラキラしています。 

 

嬉しい。本当に嬉しい。

 

魂が喜んでいます。

 

深い愛に気がつけたことで魂が救われていく。

本当に喜びの中にいます。よかったと思っています。

 

自他を信じられなくなった理由

どうして自他を信じることができなくなったのかがようやく理解できたように思います。

 

愛が見えていなかったからなのですね。

足りなかったというより、そもそも見えてなかった。

見えていても浅かった。

 

分かっていたつもりでした。

でもやっぱりわかってなかった。

 

腑に落ちて、ようやくまた理解できました。

 

迷った時、不安になった時、祈るように。

喜んだ時、楽しかった時、祈るように。

 

全ての事を委ねることができるという深い愛。

それだけの深い愛。

 

信じることができるということが

その愛に基づくものであるということ。

 

深く、なんと重みのあるものなのでしょうか。

 

喜びの中にあることを感謝したいと思います。

 

また、更新します。

 

p.s

おおきな木

とあるブログでこの絵本の事に関しての言及があり、

シンクロニシティを感じました。

私のピアノの先生が亡くなった時に受け取った本です。

深い愛、無償の愛とはなんだろう。

そのことをこの本は教えてくれていたんですね。

今更ながら改めて感動です。

最後まで読んでくださってありがとうございます。

好きなことを仕事にする

Want to listを書いてみよう


こんにちは!
今日の記事のターゲットとなる方は、
何かしなくちゃ、何かするべき!という論に
いつもとらわれてしまっている方です。

私は今日ひさびさに
listをまた更新してみました。

ますますやりたいことが見えてきました!

このリストのお陰で、大分夢も叶いました!

私の今のやりたいことを具体的に手帳に書いてみました。写真をあげたいところなのですが…。結構人の名前とかが入っているのでここでは見せられません。ごめんなさい(笑)

Want to listのポイント

大切なのはイメージがわくようなリストにすることです。心理学的も○○すべき!というのは良くありません。

夢を叶えるようなリストは具体的でわかりやすい書き方て書きます。これは人それぞれで良いと思います。芋づる式で書くのも良いでしょうし箇条書きでも良いでしょう。

私は最近はお星様☆を書いて自分がしたいことを箇条書きにしています。たとえば、
☆ドームハウスに住みたい!!
とか(//∇//)
☆少し広い部屋に引っ越して猫を飼いたい!
とか(//∇//)
この時に、色ペンなどで補足を入れたり、具体的なイメージについてメモを加えると良いです。実際にイメージにたやすいものは比較的直ぐに実現します。これは良いことも悪いこともそうです。

最近のゆるふわスピ


最近、本屋さんとかでもスピに関する本がたくさん並んでます。私も手に取ることが多いですが、何だかなぁと思う本もたくさんあります。まるで、社会的問題については自分には関係ありませんとでも言うようなスタンスの人もいます。楽しくしてればええやんけというひともいるくらいです。

それは違うなと思います。山下俊一がにこにこしている人は放射能はきませんと言ったこととそれはおなじことをさしています。

にこにこしてれば確かにメンタル的には健康かもしれません。しかし、それは社会的問題の背景やそのシステムについて理解した上での正しい対案とは言えないでしょう。気持ちの問題だけで本当に片付くなら今頃放射線量は下がってなければおかしいですし、そもそも国の基準なんてものも制定する必要は無いはずです。

本当のスピリチュアルというのは人間や自然の魂を見つめた上で善悪の彼岸が見える、または感じることができることだと私は考えています。

人間の心だけをみて、そのマインドだけで何かを変えようとするのは難しいでしょうし、できたとしてもそれが本当に人としての生に向くのかということははなはだ疑問です。

スピリチュアルの本を出している人で放射能のことや社会的問題を持ち出している人はどのくらいいますか?

私はとても悲しいなと思います。
せっかくすてきなことに気がついているはずなのに、魂が喜ぶようなことをしている人は少ないように感じているからです。


Want to listは魂を救うのか

私は最近魂の救いについてよく考えます。
このリストは魂を救うのか?と聞かれたらそうではないかもしれないし、そうかもしれないとしか答えられません。何故なら、魂を救うのは自分自身だからです。リストはあくまでも手段にしかすぎません。

ただ、魂が本当に喜ぶことをみつけることは人にとってとても大切なことだと私は思います。

私にとって魂が本当に喜ぶことは
生き物と会話をすることであり、
ふれあうことです。

彼らはとても素直で優しく、厳しいので、私は彼らと向き合うとき、とても反省させられますし、真摯になれます。

農業とか本当はした方がいいんじゃないの?とも言われるのですが、最近、それは私の道ではないかも?と思い始めてます。農家はやっても農業はしたくないと思うんですよね……。

まだこの辺はうまく表現できないのがもどかしいのですか。

最近叶った夢とこれからしたいこと

ライターになる夢叶いました。
これから目指すのはルポライターですね。
いろんな人の人生、惹かれた魂の追っかけしたいです(//∇//)
それから、
イラストを描いて、アクセサリーを作って、お店を開く。これ、今やってるところです。
来月にはオンライン上ですがお店始めます。
簡単に説明すると、私が感じているいろんなことをわかりやすく、私らしく表現したいなと思ってます。ホームページが出来次第告知します。

まだまだたくさんやりたいことがあります。
成し遂げたいことがあります。
作り続けて、残し続けたいなと思ってます。

どうぞこれからもよろしくお願いします。

また更新します(=^_^=)

罪と赦しと許し 氷点を読み返して

赦されている人たち

こんにちは。

私はよくTwitterはじめとする場で、誰も悪くないという言葉をつかいます。

そうすると、周囲から私が優しすぎるからそうおもうのだということを指摘されます。

本当に優しいのだろうかというと決してそうではないなと思うのです。

 

私はただ、その人の背景を知ろうとしているだけで、特段に優しいわけではないのです。ただ、一部の自分には罪がないと思っている人々が、無下に他者を責め、罪をなすりつけるような言動に私は非常に悲しみを覚えるのです。

 

例えば、政府や東電というのは原発事故の被害者からすれば許せない存在であることはまちがいありません。また、殺人を犯した人に対して被害者の家族が憤りを感じて、許せないという感情は当たり前の感情です。

 

私だって、怒りを覚えますし、憤りを感じます。

それで人を許せなくなることも往々にしてあります。

ただ、人が人を許せなくなった時、人は人を信じられなくなっていきます。

許せない自分自身を神から赦してもらっているという状況が発生しているのだということを私は忘れがちです。

 

人がその人を許せないと思った時に、その人たちは神から赦されている。

変な話、私も赦されているし、その加害者となる人物も赦されているんです。

ただ、そのことに感謝できるかどうかということが問題なのだと私は感じています。

 

赦せないのかそれとも許せないのか

許せないと思ってしまう。敵だと思ってしまう。これは私達が生きている上で当然のことだといえます。

汝の敵を愛せよという言葉があります。

ただ、人には非常にそのことが難しいなと思うのです。

敵を愛せというのはその敵を神が行うように赦すということを指しているともいえるのではないかと私は思うのです。

 

愛するというのはその人に命をあげることだ。と三浦綾子の氷点には書かれています。

その人に命を捧げたいと思えるほどにその人のことを愛せるかどうかと聞かれたら、私はできないかもしれないです。

そう思うと、私は自分が可愛いのだと思います。

他よりもやはり、自分の命のほうが大切に思えてしまう。

そのかけがえのない命を相手にあたえるほどの愛が私には無いように思います。

 

人間には原罪があります。

その原罪をキリストは贖いました。

自分の命をもって贖った。たとえそれが父である神が非情だからこういうことになったのではないかとも言われてしまいそうですが、そうではないと思います。ここでの解釈はそれほどに愛していた存在を人間の救いのために十字架をキリストに背負わせたということになると思います。

 

私は氷点を何度も読み返していますが、

今回気がついたことは、

私は中学生の頃まで陽子のような存在であったということです。

純粋で清らかだと自分の事を思ってきましたし、

周囲の大人も同じように純粋で清らかであって欲しいと思っていました。

だから、例えば不倫や浮気なんて許せなかったでしょうし、

殺人なんてもってのほかだと思っていました。

皆、大人は模範だとも思っていたくらいです。

特に両親や教師については。

しかし、まさに陽子が自分の中に罪の血が流れているということを自覚し、

自殺を図ったということは今となれば私が過去に経験してきたことと重なる部分が多いなと感じたのです。

その自他に対して求めていた清らかさがなくなり、

自分にも罪があるように思えて仕方がなかった。

そんな陽子の姿が自分に重なるなと思いました。

 

私は他者をゆるしたつもりになっていただけで本当にゆるすということができていないのだということを身にしみて感じました。

私は自分自身がゆるされているということを忘れてしまっていたような気がします。

自分が背負う必要ない、または背負うことなど出来ない問題を背負い、

身勝手に重い、重いと苦しんでいました。

 

私も彼らも赦されているということに気がついた時、

私は自分の今までの傲慢さを恥じました。

そして、自分が救われているということについて感謝の気持ちが湧いてきました。

 

分かっているつもりでした。

でも、やはり、つもりだったのですね・・・。

気が付かされました。

 

人は傲慢・・・・

人は人を赦せない。

場合によっては許すこともできないかもしれない。

でも、そのとき、私たちは許すことが出来ないと思ったときに、

自分に罪がまったくないのかということを考えなければならないのでしょう。

自分の罪を棚上げして、人の罪を責めたりすることはできないのではないかとも思うのです。できたとしても、それはやはり、傲慢だと思います。

 

神は赦しています。

だから、私たちは人を許すしかないのかもしれません。

誰ひとりとして責めることなど出来ないのだと思います。

 

上手く説明できなくて歯がゆいです。

わかりにくいなと感じた方もいると思います。ごめんなさい。

ただ、一人ひとり、原罪をもっているということはかわりません。

それはこの肉体をもって生まれ落ちたときから変わらない事実だとも言えるでしょう。

だからこそ、子供は赦されていることを案に知っている。

でも、大人になるに従って、悪魔に騙されて、誘惑されて、

いろんなことを差別したり、区別したりして、それが正しいことだと勝手に思い込む。

そうやって傲慢になるのがあたりまえになっていくのではないかと私は思うのです。

 

神の赦しの象徴

子供の純粋さや清らかさは神の赦しの象徴かもしれません。

私が子供に罪がないといっているのはその純粋さや清らかさといったものが見えるからかもしれません。しかし、罪がないというのはやはり語弊がありますね。原罪は常にあるわけですから。

 

また、学びがあったなと思います。

感謝して今日もすごします。

 

また更新します。

赦しは請うもの

許しではなく赦し


許してください。と言ったとき、キリスト教では解釈がおかしくなってしまう。その点について今まであまりブログでふれてこなかった。

キリスト教での赦しというのは容赦の意味がある。人が裁くのではなく、神が裁くのだと。

そこで人がそれを罪だということは滑稽であり、いかに傲慢なことか。

許しというのは許可を求めるということである。それは特に省みやそれこそ悔い改めというものをもとにはしない。

容赦にはそこには自分にも何らかの問題があるということを前提とした上でそれでも、それを認めて容認してほしいという意図が見えるような気がする。これはあくまでも今現在の私自身の解釈で、牧師先生はじめとする方はまた違う解説をされると思う。

ただ、赦しを請うというのははたまたその行動すらも悔い改めが必要なのだとも思う。何故ならそれが人として、生き物として悪いことかもしれないと薄々感じつつも、容赦してほしいというのは人間のおろかさでもあるからだ。赦しと悔い改めがセットでなければならないのはこのためだと言える。

赦しが足りないこと

私は今日自分自身に赦しが足りないことを知った。そしてまた同時に悔い改めが足りないことも痛感した。

人への誠実さもさることながら、自分自身への誠実さもかけているような状態が続いていたとも気がつかされた。

非常に反省している。

私は周囲の状況に甘んじていつの間にか許しを請うていたことに気がついたのだ。今必要なのは目の前にいる相手へ許しを請うことではなく、神に赦しを請うこと。そして、悔い改めることなのだと感じた。

人は元来もつ寂しさがある。
その寂しさはいつも私のそばにある。
赦しを常に請うていて寂しいのか、
寂しいから赦しを請うているのか…。
私は個人的には前者だとおもうが。
言い換えれば愛を欲しているから寂しいとなれば、それはそれで私は傲慢だろう。神に愛されていることを忘れてしまっている証拠だとも言えるから。

しかし、人間である以上、動物としてもやはり人は1人でその寂しさを埋めることはできない。だから、そこで神の愛がありながらも、人間としての気持ちを大切にすることの赦しを請うのかもしれない。本能としての赦しを請うのかもしれない。イブとエバの関係がそう始まったように。

魂が惹かれ合う時

魂が惹かれ合う時、
魂がその片割れを見つけたとき、
一緒になりたいと思うのは当然のこと。

光と闇が解け合うように、
光と光がひとつになるときのように、
そんな美しさを一緒に分かち合いたいとおもうのは普通のことだと思う。

だが、その普通と思えることにも
赦しと悔い改めが必要なのだとも思う。
ただ、魂としての赦しとは悔い改めが必要なのだろうかとも思う…。
人としてというより、それよりももっと深いところへの繋がり。そこには赦しと悔い改めはあるんだろうか…。私は今その事について思いを馳せている。

明日からしばし、祈りに集中したいとおもう。綾子さんの本に触れつつ赦しと悔い改めについて考えたい。


帰還できるようになって

帰らない、帰れない

帰還できるようになっても帰らない人が多いと言うことについて、人々が何を思うのか。ということが鍵になるだろうなと思っています…。


人々がえ?何で帰らないの??と疑問を持って調べ始めれば(今更調べるのか…っていうツッコミはとりあえず置いておいたとして)それはそれでそのひとが今回の事故のことを改めて考え直すきっかけになるかもしれない。

ちなみに、最近知り合いに福島から来たことをつたえたら、
戻らない。戻れない。どっちなの?ときかれた。
この考え方の違いは大きいし、その質問は良い質問だなぁと思った。戻れますけど、戻りません。放射線量高いままですから。怖いので戻りません。と伝えました。

コミュニケーションなのだから

もしも、どこかの誰かに、何で帰らないの?と仮に聞かれたら、私なら逆にどうしてだと思います??自分ならどうします?って聞いちゃいます。一度相手に考えさせる時間を私なら作ります。

向こうは何にも考えないでただ聞いてくるだけかもしれない。
会話の流れを作っていくのは大切なこと。
あくまでもコミュニケーションなのだから、向こうがただの質問したがりならこちらから話の流れを作ってしまえばいいだけ。向こうがなんにも考え無しで話しかけてくるようなら、考えるような時間をこちらから渡せばいいと私は思ってます。

国や東電はこのくにの枝葉

罪のない子どもたちが犠牲になって、責任を背負わせていくのは本当に許せません。私も当時15でした。大人が赦せなくなった時期はあります。未だに引きずってもいます。国や東電を責めていてもなんにも変わらないです。国や東電はこのくにの枝葉にしか過ぎません。

おつりを出し続ける

私たちが本当に何をしなければならないのかということを考えなければなりません。歩み寄りも必要ですし、理解できる人同士で出きることを共有してお釣りを出し続ける必要があります。分け合えば余るのです。その余ったものを元にして、また新しいものを創造したり、新しい試みを始めていけば良いだけです。

シンプルなことをもっとたくさんの人としていけたら幸せだなと思います。

また、更新します。