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私の話を聞いて下さい~原発事故を経験した私の生き方~

福島からの自主避難者である「しすたー」の想いや考えを伝えます。

めぐり・還元のなかで

日記

こんにちは。

Twitterから離れてもう少しで一ヶ月経とうとしようとしているのではないでしょうか。

9月、私には信じられないことが続きました。

何故、自分なのだという困惑。

全ての事がつながって見えて、

1つの線になっていき、今現在の時にまとまろうとしています。

しかし、まだ、私の中では過去の時間が私の足を掴みます。

そして魂を過去へと引きずるのです。

現実の世界に戻った時に、

目の前がゆがんで見えます。

それはあの日に見えたものとよく似ているのです。

目の前のすべてが歪み、自分が死ぬのではないかという危機感と、不安感に襲われます。

私は9月頭、混乱の中をさまよいました。

意識がもうろうとして、過去と現在の区別がつかないほどの時間の歪みを感じていましたし、

自分自身が何であるかという過去私が中学生の時に抱いていた疑問をつきつけられたのです。

自我同一性(アイデンティティ)な確立ができなくなり、

他者の中に自分を求めようとする自分の愚かさと、安易さをつきつけられました。

また、自分が「有る」という二元性的考え方に足を取られ、

いつしか、目に見えるものだけに確信をいただくようになっていたことに気が付きました。

Oリング・ダウジング

もちろん、それらは、眼に見えないものを目に見える形にしてくれます。

しかし、目に見えるものだけを見つめていては何も始まらないのです。

放射能

これも、目には見えません。

よく考えていただきたいのは。目に見えない物こそに確信があると私も時々ツイートしてきましたが、

これは、私が今よりも悟っていない時の自分の言葉です。

私は、ただ単に見えないからこそ、そこにある本質を逃してはならないと思っていました。

しかし、実際そういうこととは少し異なることがわかりました。

(「わかりました」=「悟りました」とはいえません。いま、私は「悟り続けている」状況だからです。)

眼に見えないものこそ力がある=エネルギー源が大きいものがある

この世の中のものは、二元的ではなく、一元的に考えることが必要だと私は認識させられましたが、

そのことを踏まえると放射能のような強いエネルギー源になればなるほど可視化が難しい、

または限られるとということに気がつくと、どれだけ、放射能が恐ろしいものであり、

それが単なる化学兵器としてのエネルギーとしての認識ではなく、

これは、多くの人間の奢りや憎しみ、怒りといった私たちの持つ負のエネルギーの結晶・結果で有るといえるのでは無いでしょうか。

そして、また、同時にこれらのものは、それまで明るく生きていた人・罪のない人に新たな苦しみ、悲しみを与えるきっかけにもなったことは言うまでもありません。

その中で、多くの人が自分の愛する人や、友人を亡くし、

人を憎み、自然を憎み、社会を憎み、世界を憎み、

多くの軋轢を生み、

新たな争いを生み出しました。

いつの時代もこれらのことを人は繰り返してきました。

今回は、たまたま、震災と原発事故だったわけです。

あくまでもこれらはきっかけであって結果ではないことを忘れてはならないと思います。

このことを結果として終わらせることで、

全てのことは閉じてしまい、また、新たな苦しみが生まれるだけです。

赦し・愛することは難しいことです。

私は9月にまた、命拾いをしました。

生死を選択する場面が何度もありました。

自分の死・愛する人の死・愛した人の死・・・

自分の中で多くの人物の声が聞こえ、私を混乱させました。

それをもちろん精神障害と多くの人は嘲笑したり、変な目で見たりするのでしょう。

それでも構いませんが、差別はしないでください。

誰にでも有ることだと思っているので。

私は9月に、記憶の中で意識がもうろうとする中、

生きることを選択し、

誰も殺さないことを選択しました。

それは、自分を愛してくれた人や、守ってくれた人の記憶が私の中に生き続けてきたからです。

ただ、そのことを裏切られるようなことや、私自身が突き放した魂達が私を苦しめました。

人の心がぼんやりと見え、感じ、そして、憎しみ・恐怖・苦しみ・悩みをできるだけ還元の中に返し、

赦しや愛の中に還元してきた私に残ったのは、閉じられた還元の中に取り残されてしまった、

憎しみ・恐怖・苦しみ・悩みでした。

それが、たまたま9月にコップからあふれていきました。

押し流されて、押し流されて、

私は、なくした記憶をまた再び少しずつ思い出す日々が始まりました。

それは確かに多くの痛みが伴い、自分の今までの行動の全ての原理を知ろうとすればするほど、

心が閉ざされそうになりますが、私はまた一つ大きな気付きがありました。

それは

人は幸せになるために生まれてきている

ということです。

私はいつの日かから。幸せになるということを何処かで諦めていたように感じています。

それは、多くの恋愛における関わりにも顕著に現れていました。

日常の生活においても自分のことは後回し。

もう少し、いや、もう私は私の人生を歩いてもいいのではないか。

しあわせになってもいいんじゃないか。と。

それは決して自己中などではなく。

傷を埋め合う、舐め合うようなものでもなく。

私が私として生きるためにまた、初めてもいいのではないかと思ったのです。

赦し・愛 は私にとって大きなテーマです。

これは、どの宗教問わずのテーマだと思います。

世界平和は赦しと愛です。

「汝の敵を愛せ」という表現が聖書の中に出てきますが、

この「汝の敵」というのは、最終的に他者ではなく「自分自身」であると言えると思います。

誰も「悪を愛せ」とは言っていないです。

「何が美徳なのか」がヒントになると思います。

私は今日も隣人を赦し・愛します。

それは、自分のことを赦し・愛するということに繋がると確信したからです。

ではでは。

今日のところはこの辺で。

ごきげんよう。