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私の話を聞いて下さい~原発事故を経験した私の生き方~

福島からの自主避難者である「しすたー」の想いや考えを伝えます。

木のたとえ

こんにちは!!!

今週はたくさんの人が見てくださっているようでうれしいです\(^o^)/

ありがとうございます!!

 

さてさて、今日の話題は先日の出来事についてです。

だいぶ傷ついた一方、そこに介在する各々の問題点について考えたことをまとめてみました。

 

いいから早くやれ

・・・。

人の話も半分にいきなり自分のエゴを押し付けるような形でこの言葉を言われてしまいました。だいぶ傷つきました・・・・笑

もちろん口だけ盛んに動かしているのは愚の骨頂だということは私も理解しています。

ただ、相手のことを何も知らない、またはその背景を考えることなく頭ごなしに早くしろということを言うのは私にとっては言葉の暴力他なりません。

 

いいから早くやれの背景

「いいからやれ」には①自信からの傲慢さ、または(人によっては且つかもしれませんが・・・)②不甲斐なさからの傲慢さのようなものを背景として感じます。

詳しく言うなら

①自分は間違ったことをしてこなかったという自信が優越感にかわって傲慢な言葉として出てきてしまった

②自分たちが結局この社会を作ってしまったということに対する罪悪感が傲慢な言葉として出てきてしまった。

若者からすれば大人が作ってきた社会があるのにもかかわらず、この状況において、お前ら早く一緒になんとかしてくれというのにはあまりにも傲慢な気がします。

とういうのも若者が社会からの逸脱する理由(逸脱される理由というのはまた別にあると私は考えています。)は大人の押し付けがましい傲慢さに安易に乗りたくないという思いがあるからではないでしょうか。

私たちは大人という存在から、あれが正しい、これが間違っているということを教えられてきました。しかし、その教えは主に別な側面が見えてしまえばあっという間に間違ったものになってしまうということが多々あります。

 

木のたとえ

結局①②どちらにしても、そのまま先人たちの後ろをついたとしても変わらないものがあるというのを私は感じています。これは木と同じであると私は考えています。木の枝葉というのは一つ一つがしっかりしていることは良いことです。

しかし、この枝葉がしっかりしている理由は根がしっかりと栄養をとる能力があって尚且つ常に新しい命のエネルギーを受け取っているから大きなしっかりとした枝葉をもつ木になるわけです。

先人たちが作ってきたものが結局今の社会を形成しています。たとえそこに美しさがあったとしてもそれは根にはなり得なかったということを示唆しています。根になりえていたならば、戦争も原発事故も起きなかったのではないかと思うのです。

もちろん、各々が地に足を付けて踏ん張る力は必要だと思います。つまりは一人一人が木になるということです。

しかし、どうでしょう。今の社会のシステムに足を全くつけないという事があるでしょうか。根の周りの土壌が悪ければ根はやはり枯れてしまうと私は考えます。

 

私達が今の大人と同じ歳になったときに

木には様々な種類があります。

私達はその個を認める力が少ないように思います。

私が将来若者に出来ることといえば出来る限り土壌をあらゆる手段をもちいて美しくたもち続けることだと思います。汚れてしまったもの、修正不可能な土はできるかぎり浄化しつつ、それも無理のない範囲でやっていく必要があると私は考えます。そして、生まれてきた新しい世代の命が生み出す考え方や生き方を認めてバトンを笑顔で渡したい!!

 

渡されたバトン

私は渡されたバトンがあまりにも重いような気がしてますし、土壌があまりにも汚れているように思えてなりません。年代の壁、専門分野の壁を超えて、皆が協力してよいよい美しい土壌をもう一度作っていきたいです。

そのためには、一つの正しさに囚われて閉じることのないように、常に生み出し続け、それを分けあって生きていく必要があるのではないでしょうか。