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原発事故で自主避難した私の生き方

福島からの自主避難者である「しすたー」の想いや考えを伝えます。

生きることを蔑ろにしている日本人

「直ちに健康に影響はありません」の消費期限

こんばんは。

今日はまた、気分が沈んでしまいました。

そして、同時に私ができることについて改めて考えました。

 

www.nhk.or.jp

 

群馬でもいじめが確認されていたそうですが、

全国的にいじめは当時からあったのです。

問題はそこではないのです。

問題がそのときからあるのにどうして無視してきたのかということです。

 

そこに顕在化していたにも関わらず臭いものには蓋をするように皆が目をそむけました。

 

「直ちに健康に影響はありません」

の消費期限が来ただけです。

 

こころにも体にも十分に私たちはダメージを負いました。

それが今になって顕著になりすぎ、政府も自治体も隠しきれなくなったのです。

 

www.dailymotion.com

チェルノブイリでの視察でなんとかしなければならない。

日本には日本のシステムがある。

という話が出てきたようですが、ちゃんちゃらおかしい話だと私は考えています。

www.youtube.com

情報操作についてはチェルノブイリ原発事故の時も同様に行われました。

日本は悪いところばかり海外の真似をしているように思います。

こうしてはならないというチェルノブイリの人たちの声を日本は踏みにじったことになります。

社会学的に見ても、社会心理学的に見ても、原発事故から今に至るまで情報操作としか言えないような報道がなされてきました。

メディアというのはとても便利なものでもありますが、ジャーナリズムが崩壊すれば偏りのある恣意的なものへと早変わりしてしまいます。

情報リテラシーもなく、ただ受け身になるだけの人が果たして、今いじめのニュースや原発視察についての記事をみて何を思うのか。

私は恐ろしくてたまらないです。

 

尊厳は誰のものなのか

www.huffingtonpost.jp

 

福島で目にしたのは、日本社会に人々が団結する形での『抵抗』という文化がないことです。祖母を亡くし、国を提訴した女性はその例外です。同じ訴えが何千件もあれば、人々に対する国の態度も変わったかもしれません。全体主義の長い文化があったわが国(旧ソ連)でも、人々が社会に対する抵抗の文化を持っていません。日本ではなぜなのでしょうか

 

 

日本人は人の思いをないがしろにし過ぎたのです。

ただ、ありのままに生きることが良いという森田療法的な考え方を取れれば良いのだが、それは何も考えずに呆然と好きなように生きることとは話がちがう。

 

正しいことに従って生きることでの心地よさということについても言及したいのだが、そもそも、正しさとはなんだろう。目の前に見えることだけを正しさとしていないか私は常に自問自答しています。

 

本来の生きるという方向性において日本人は考えなくても与えられるという状況に甘んじるようになってしまったのではないかと私は考えています。

 

例えば、食べ物について例に取りましょう。

おいしいです。味も見た目も間違いない。

でももしも底に放射性物質が含まれていたらどうでしょう。

見た目も味もそのままだから何にも考えない人にとっては理解できないのでしょう。

腑に落ちないのでしょう。

 

目に見えないことにこそ真実はあると私はいつも思っています。

起こったことよりもその背景や思いについて私は常に目を向けるようにしています。

 

現実から見える真実というのはどうしたら見えるのかという事を私たちは常に考えなければならないと思います。

 

生きることを相手に任せてしまっていませんか。

大切な人間の尊厳を誰かに売り渡してませんか。

 

生きる権利を認めないこの国に屈してはいけないし、甘んじてはならない。

抵抗するんだ。

生きたいという思いを皆が確かなものとして実感するためには何かを日々作り出し、誰かと心から愛し合うことが必要だと私は感じています。 

 

赦しと悔い改め。

日々感謝して生きるということがどういうことなのか。

私はその意味を改めてまた自分に問いたいと思います。

 

また更新します。