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原発事故で自主避難した私の生き方

福島からの自主避難者である「しすたー」の想いや考えを伝えます。

三浦綾子から学ぶ①

世の中に、特別に大事な人があってはならぬ。

特別に大事な人がいるということは、

大事でない人がいるということになる。

人間は皆同じなのだ。

「生かされてある日々」より抜粋 

 

比べることで差別、自惚れ、卑下が始まる

自分は彼よりも、彼女よりも大変な目にあった。

自分は彼よりも、彼女よりもまだまし。

 

もしも、一人ひとりを同じ人間としてみることが出来ていたら、その心の痛みなど比べることなど出来なければ、また同じ物事でも経験尺度がちがうということはすぐに理解できるのではないでしょうか。

しかし、私たちは傲慢にも人に自分の苦しみについて理解してほしいと思うことが多いでしょう。しかし、他人には自分の痛みを100%理解することなどできないのです。

ただ、理解しようと努力することができるだけです。

 

好き・嫌いは愛することとは関係ない

人は好き嫌いで人や物事を考えがちです。

ですが実際のところ重要なのは、好き嫌い、善い悪いという観点ではなくもっと広い視野で自分が納得できるかどうかということだと思います。赦すこと=愛することだとするならば、差別を生むものは赦しからは遠いものであるといえるでしょう。

 

「隣人」時にはそれは「敵」かもしれませんが、私たちはその相手を愛することができるだろうかということについて綾子さんは多くの著書で言及しています。

 

自分のことを愛するかのように、相手のことを愛することが出来るのかどうか。

ということを問われているわけですが、そもそも、自分を愛するということを理解していないと、この問に答えることは難しいのでしょう。。。

 

私自身、自分のことを本当に愛せているのかというと甚だ疑問です。

 

ただ、こうして振り返ってみた時に、自分の日々の傲慢さについて思い知らされます。

他人を傷つけたくないという思いが逆に自分自身を傷つけるという要因になっていることもあります。

 

自分は生かされている人間だということ

 

おかげさまでということばがあるが、正にこれだろう。

自分は常に生かされている。そして逆に誰かを生かしてもいる。

そのことを理解した時に自死を選ぶということがどういうことかということについて考えさせられるのではないでしょうか。

 

誰からも愛されていないし、必要とされていない。

それは本当でしょうか。

もしも、万が一本当だとするならば、自分が誰かに与える人間になりえているのかということについて考えてみてはどうでしょう。

誰かに与えることができているならば安心して善いと思います。

巡り巡って自分に何らかの形で返ってきているでしょう。ただ、それに気がついていないだけで。

 

他人に与えずして、自分だけが搾取するということはバランスが保たれません。

相手に何かが足りないと嘆くまえに自分に何かが足りないのではないかと自問自答する必要があると思います。

 

生きることは難しいけど美しい

世の中には過酷が溢れています。

その中で生きるということを選択して、なんとかかんとか生きることを選択している自分を褒めてあげたいと思います。また、そのように自分を導いてくれた多くの物事、人たちに感謝したいと思います。