読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

私の話を聞いて下さい

自主避難者である「しすたー」の想いや考えを伝えます。

エゴが招く子供の沈黙

震災 原発 大人 子供

周囲のエゴ

 

自分の障害のこともそうだし、自分の被災した経験でも、「他人に話したくない」「子供が傷つくからやめて。」と言う人が、いる。

周囲の人のエゴが影響してるかもなぁと最近私は思ってる。

 

「他人に話したくない」

 

同情されたくない。

批判されたくない。

パニックになるかもしれない。

分かってくれないだろう。

 

そんな思いが恐らくあるのだと思う。

私もそう思ってた時期はあるし、今も思うことはある。

どれも、共通してるのは自己容認が結局自分自身の中でできていないということだとおもう。

 

必要以上の優しさや手助けは相手の自立には何らつながらない。また、誰かが一生懸命やってるから、それに任せていれば大丈夫。といった甘えが知らず知らずのうちに自分の中に流れてしまうことはよくある。

 

こうした甘えが当たり前になってしまうと、自分がいなければ相手はやっていけない、と自分が相手からあたかも必要とされているかのような錯覚に陥ることもある。

 

被害者または被災者と支援者が各々に自己容認ができていれば相手に過度に求めすぎることもないし、共依存も防げるのだが。

 

被災者だから、被害者だから、障害があるから、支援者だから、健常者だから・・・そういうたぐいの分類みたいなものが結局変な二元化を生むんだろうなとも私は思っている。

話さなくてもいい。というのと、話したくない。というのは全然ちがう。

他人に話したくないということは、自分の中に思いを閉じこめることになる。

子供がいじめを話したくないと思うのはどういう心理なのかを考えてみるとわかりやすいだろう。

それが結局どういう状況を招くのかということも。

 

「子供が傷つくからやめて」

私は原発事故の問題はこのことと何ら代わりないと思っている。

「子供が傷つくからやめて」というのはお門違いだと思うのだ。

そもそもききたいのだが、それ誰のセリフなの?と。本人が本当にそんな風に思ってるの??ってことだ。

もちろん、ねほりはほり何でも聞いて良いとは決して思っていない。

必要なのは相手を尊重する心。向き合う、受け入れる、支える、一緒に考える、という先に進むための提案や対案をすることができるかということだろう。

聞く側にも覚悟がもちろん必要だし、無ければ仮にでも安易に相手を助けたいと思って話を何でも聞いたりしてはならないと私は個人的に思っている。

 

大人のエゴが招く子供の沈黙

 

また、この原発事故の問題もそうだし、虐待やいじめといった問題にせよ、

はなしたくない

ききたくない

と思ってるのは子供の方ではなく、実は大人の方だと私は確信している。

 

これは私の経験上そう言える。

自分にとって不都合なことはききたくない。受け入れられない。言わないでほしい。そういう大人や親が残念ながらこの国は多いと私はひしひしと痛感するのだ。

 

触れ方が分からない。

どう声をかけたらいいのかわからない。

自分が情けない。

そういう自己嫌悪に陥って結局子供のことは見て見ぬふり。

子供もその空気を読んでいるので口にだしたりはしない。

実際何冊もの震災・原発関連の本をよんできたし、ドキュメンタリーも見てきたわけだが、その中でも確かに、仮設住宅で家族が空気的にそういうことを伏せて日常生活を送っているということが記されていたのを覚えている。

 

大人は「生活があるから。いつまでもきにしているわけにも行かない」

と言うかもしれない。

しかし、そこで子供が本当にその問題と向き合う準備を親は出来ているのかということを問いたいのだ。

仮にもこじらせてしまっても、それを受け入れるだけの気持ちが出来ているのかどうかということ。自分なりにその原発なら原発事故の問題についてこどもと話せる準備ができているのかどうか。

 

親のエゴ、周りの大人のエゴは結局子供の足を引っ張る。

私は親と避難後にうまくいかなくなり、共に生活することが困難になり、自分自身の生命の危機を感じたので北海道に逃げた。

 

親は確かに私の事を止めたし、北海道に移り住んだ後も暫くの間はわたしのことを散々いろいろ考えたらしい。

でも、家出をしたのは吉で、私がいなくなって両親はようやく本当に大切なことがなんなのかということを考え始めるようななったようだ。

 

まだまだ、道のりはながいだろうなとは思っている。

でも、私はこれでよかったと思ってる。

 

親のエゴ、周りの大人のエゴは結局子供の足を引っ張る。

これは今一生さんも言っているが、毒親は捨てていいし、エゴを撒き散らす大人に従う必要はない。

 

私が1人の若者として今の大人にしてほしいことといえば、

一緒に今の世の中を変えるために自分がなにが出来るのかということを真剣に考えて、行動してほしいということ。

 

そして今の若者や子どもたちは空気を読むことがとても上手なので、

分かっていても言わないこともたくさんある。

そういう気持ちを吐き出せるような関係性づくりをしてほしいというとこだ。

 

だから、その方法がわからないんだよ!!という方。

まず、自分自身の気持ちを吐き出せる人ってどういう人なのかということをかんがえてみたらいいと思う。それを書き出してみて自分に足りないところを補っていくようにしてみたらどうだろう。

また、自分自身が気持ちを相手に吐き出すことができなければ、相手も同様に自分の気持を吐き出すことはできない。

相手の鏡は自分。

自分の鏡は相手。

 

いろんなことをこうしてみてみると、大人も子供も関係ないのだと思う。

人として生きるということがどういうことなのか。

あくまでも親と子、大人と子供ではなく、

全ては生きる権利を持つ人と人との関わりなのだということだと私は考える。

 

また、次の更新もよろしくお願いします。

(次こそソーシャルデザインの話を・・・・)