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原発事故で自主避難した私の生き方

福島からの自主避難者である「しすたー」の想いや考えを伝えます。

赦しは請うもの

許しではなく赦し


許してください。と言ったとき、キリスト教では解釈がおかしくなってしまう。その点について今まであまりブログでふれてこなかった。

キリスト教での赦しというのは容赦の意味がある。人が裁くのではなく、神が裁くのだと。

そこで人がそれを罪だということは滑稽であり、いかに傲慢なことか。

許しというのは許可を求めるということである。それは特に省みやそれこそ悔い改めというものをもとにはしない。

容赦にはそこには自分にも何らかの問題があるということを前提とした上でそれでも、それを認めて容認してほしいという意図が見えるような気がする。これはあくまでも今現在の私自身の解釈で、牧師先生はじめとする方はまた違う解説をされると思う。

ただ、赦しを請うというのははたまたその行動すらも悔い改めが必要なのだとも思う。何故ならそれが人として、生き物として悪いことかもしれないと薄々感じつつも、容赦してほしいというのは人間のおろかさでもあるからだ。赦しと悔い改めがセットでなければならないのはこのためだと言える。

赦しが足りないこと

私は今日自分自身に赦しが足りないことを知った。そしてまた同時に悔い改めが足りないことも痛感した。

人への誠実さもさることながら、自分自身への誠実さもかけているような状態が続いていたとも気がつかされた。

非常に反省している。

私は周囲の状況に甘んじていつの間にか許しを請うていたことに気がついたのだ。今必要なのは目の前にいる相手へ許しを請うことではなく、神に赦しを請うこと。そして、悔い改めることなのだと感じた。

人は元来もつ寂しさがある。
その寂しさはいつも私のそばにある。
赦しを常に請うていて寂しいのか、
寂しいから赦しを請うているのか…。
私は個人的には前者だとおもうが。
言い換えれば愛を欲しているから寂しいとなれば、それはそれで私は傲慢だろう。神に愛されていることを忘れてしまっている証拠だとも言えるから。

しかし、人間である以上、動物としてもやはり人は1人でその寂しさを埋めることはできない。だから、そこで神の愛がありながらも、人間としての気持ちを大切にすることの赦しを請うのかもしれない。本能としての赦しを請うのかもしれない。イブとエバの関係がそう始まったように。

魂が惹かれ合う時

魂が惹かれ合う時、
魂がその片割れを見つけたとき、
一緒になりたいと思うのは当然のこと。

光と闇が解け合うように、
光と光がひとつになるときのように、
そんな美しさを一緒に分かち合いたいとおもうのは普通のことだと思う。

だが、その普通と思えることにも
赦しと悔い改めが必要なのだとも思う。
ただ、魂としての赦しとは悔い改めが必要なのだろうかとも思う…。
人としてというより、それよりももっと深いところへの繋がり。そこには赦しと悔い改めはあるんだろうか…。私は今その事について思いを馳せている。

明日からしばし、祈りに集中したいとおもう。綾子さんの本に触れつつ赦しと悔い改めについて考えたい。