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私の話を聞いて下さい~原発事故を経験した私の生き方~

福島からの自主避難者である「しすたー」の想いや考えを伝えます。

罪と赦しと許し 氷点を読み返して

赦されている人たち

こんにちは。

私はよくTwitterはじめとする場で、誰も悪くないという言葉をつかいます。

そうすると、周囲から私が優しすぎるからそうおもうのだということを指摘されます。

本当に優しいのだろうかというと決してそうではないなと思うのです。

 

私はただ、その人の背景を知ろうとしているだけで、特段に優しいわけではないのです。ただ、一部の自分には罪がないと思っている人々が、無下に他者を責め、罪をなすりつけるような言動に私は非常に悲しみを覚えるのです。

 

例えば、政府や東電というのは原発事故の被害者からすれば許せない存在であることはまちがいありません。また、殺人を犯した人に対して被害者の家族が憤りを感じて、許せないという感情は当たり前の感情です。

 

私だって、怒りを覚えますし、憤りを感じます。

それで人を許せなくなることも往々にしてあります。

ただ、人が人を許せなくなった時、人は人を信じられなくなっていきます。

許せない自分自身を神から赦してもらっているという状況が発生しているのだということを私は忘れがちです。

 

人がその人を許せないと思った時に、その人たちは神から赦されている。

変な話、私も赦されているし、その加害者となる人物も赦されているんです。

ただ、そのことに感謝できるかどうかということが問題なのだと私は感じています。

 

赦せないのかそれとも許せないのか

許せないと思ってしまう。敵だと思ってしまう。これは私達が生きている上で当然のことだといえます。

汝の敵を愛せよという言葉があります。

ただ、人には非常にそのことが難しいなと思うのです。

敵を愛せというのはその敵を神が行うように赦すということを指しているともいえるのではないかと私は思うのです。

 

愛するというのはその人に命をあげることだ。と三浦綾子の氷点には書かれています。

その人に命を捧げたいと思えるほどにその人のことを愛せるかどうかと聞かれたら、私はできないかもしれないです。

そう思うと、私は自分が可愛いのだと思います。

他よりもやはり、自分の命のほうが大切に思えてしまう。

そのかけがえのない命を相手にあたえるほどの愛が私には無いように思います。

 

人間には原罪があります。

その原罪をキリストは贖いました。

自分の命をもって贖った。たとえそれが父である神が非情だからこういうことになったのではないかとも言われてしまいそうですが、そうではないと思います。ここでの解釈はそれほどに愛していた存在を人間の救いのために十字架をキリストに背負わせたということになると思います。

 

私は氷点を何度も読み返していますが、

今回気がついたことは、

私は中学生の頃まで陽子のような存在であったということです。

純粋で清らかだと自分の事を思ってきましたし、

周囲の大人も同じように純粋で清らかであって欲しいと思っていました。

だから、例えば不倫や浮気なんて許せなかったでしょうし、

殺人なんてもってのほかだと思っていました。

皆、大人は模範だとも思っていたくらいです。

特に両親や教師については。

しかし、まさに陽子が自分の中に罪の血が流れているということを自覚し、

自殺を図ったということは今となれば私が過去に経験してきたことと重なる部分が多いなと感じたのです。

その自他に対して求めていた清らかさがなくなり、

自分にも罪があるように思えて仕方がなかった。

そんな陽子の姿が自分に重なるなと思いました。

 

私は他者をゆるしたつもりになっていただけで本当にゆるすということができていないのだということを身にしみて感じました。

私は自分自身がゆるされているということを忘れてしまっていたような気がします。

自分が背負う必要ない、または背負うことなど出来ない問題を背負い、

身勝手に重い、重いと苦しんでいました。

 

私も彼らも赦されているということに気がついた時、

私は自分の今までの傲慢さを恥じました。

そして、自分が救われているということについて感謝の気持ちが湧いてきました。

 

分かっているつもりでした。

でも、やはり、つもりだったのですね・・・。

気が付かされました。

 

人は傲慢・・・・

人は人を赦せない。

場合によっては許すこともできないかもしれない。

でも、そのとき、私たちは許すことが出来ないと思ったときに、

自分に罪がまったくないのかということを考えなければならないのでしょう。

自分の罪を棚上げして、人の罪を責めたりすることはできないのではないかとも思うのです。できたとしても、それはやはり、傲慢だと思います。

 

神は赦しています。

だから、私たちは人を許すしかないのかもしれません。

誰ひとりとして責めることなど出来ないのだと思います。

 

上手く説明できなくて歯がゆいです。

わかりにくいなと感じた方もいると思います。ごめんなさい。

ただ、一人ひとり、原罪をもっているということはかわりません。

それはこの肉体をもって生まれ落ちたときから変わらない事実だとも言えるでしょう。

だからこそ、子供は赦されていることを案に知っている。

でも、大人になるに従って、悪魔に騙されて、誘惑されて、

いろんなことを差別したり、区別したりして、それが正しいことだと勝手に思い込む。

そうやって傲慢になるのがあたりまえになっていくのではないかと私は思うのです。

 

神の赦しの象徴

子供の純粋さや清らかさは神の赦しの象徴かもしれません。

私が子供に罪がないといっているのはその純粋さや清らかさといったものが見えるからかもしれません。しかし、罪がないというのはやはり語弊がありますね。原罪は常にあるわけですから。

 

また、学びがあったなと思います。

感謝して今日もすごします。

 

また更新します。