「生きる覚悟」と「希望の光」~原発事故で自主避難した「15歳の少女」からの告発~

原発事故で自主避難者した経験から生き残る術を模索するブログ

制御不能のシステム社会

制御不能になった機械を止めるのに、人が入ってハンドル回しに行くんだよ。他に何がある?誰かが人柱になればいい、と嗤ってる。

これは原発だけの話じゃない。

この狂った「社会システム」という制御不能なものに、どうやって歯止めをかけるのか?って?勝手にオワタんになるのを待つのか?また爆発するのをみてる?高みの見物?あー怖いーって言いながら?

そのシステムの歯車になって機械を回してる自分を必死に守って、誰かが人柱になっていくのを嗤ってみて。

怒らないでもっと穏和に。
頑張れ、○○。

歪んだ応援に
歪んだ愛。

優しい社会
とかいいながら、
どこに向かうの?

貴方はどこへ向かうの?
私はどこへ向かうの?

 

 

大きな独り言…

 

飛行機ももちろん、フクイチの放射性物質をうけて飛んでいるのもあるわけで。行った先、または飛行機の中で被ばくして、帰ってきてから体調崩す人の話も少なくない…。ただ…ふと最近思うのは…今世…やらんと後悔しそうなことをやらんで終わることは嫌だなぁとも思う…。

あの人に…あの場所に…あの時…
被ばくするから…
という理由で…

私の心は揺らいでる。
被ばくしてまで…
そのリスクを背負ってまで…
行かなきゃ行けないのか?…

師(勝手に師だと思ってる(笑))には言われるだろうし、行けばまた…私の中の時限爆弾が炸裂するかもしれない。

それでも…

会いたい人に会って、
行きたい場所に行きたい……
リスクをできるだけ回避しながら…

きっと…それを
甘い
と、師をはじめ、もっと気をつけている人や、それこそ、数年前の私なら言うだろう…。

私は「甘く」なったのかもしれない…
それは「諦め」なのか…
はたまた…また…数年前抱いた「覚悟」とは違う「覚悟」をもっただけなのか…

綺麗事をいえば、
「甘く」なったのではなく…
「ゆるせる」ようになったのかもしれない…

「仕方ない」

と、言えるような…
心から…
「だってにんげんだもの(仕方ない)」
と、言えるようになったのかもしれない……。

ゆるし、という名の逃げ、なのか、、、。

だれも答えなんて知らない…。

命の天秤

3年間の高校生活と命(健康)を天秤にしたあの時と違うのは…

今の私は
私の人生と地球の時間 を天秤にかけているということ。

まだ空にいる…私の子どもは…
私を見て何を思っているだろうか…
…ごめんよ
まだ、君をこっちに呼べるほど、
君が来たいと思えるほど、
こっちの世界も私も、準備はできてない気がするんだよ…。

今世は今世しかない…
今は今しかない……

だとしたら…
私はどこに向かいたいのか…
今年、3年後、6年後…私はどこにいたい?
何をしてたい?

今年、3年後、6年後…
あの場所はまだ存在してる?…
あの人はまだ生きてる?…

私は
どんな夢がある…?
いま、何がしたいしたくない?…
誰とどこにいたい…?

また私は自分のプレゼンのスライドを見ながら、自問自答する…。

未来を決めない
今目の前の選択を全力で…
したいことを…したいように…
…できたらいいよな……

2020年の嘆きの中に見出す希望の光

こんばんは。ご無沙汰しております。

 

 

このブログも毎日誰かは見てくれているようで、

なんだか、更新もあまりしなくなってしまったのに申し訳ないような気持ちもありながら…。

 

 

今年は、

☆講演会

☆保健室作り

☆執筆本の出版

の三本立てで動いていこうと思っています。

 

 

 

やらない理由探しは相変わらずやめられず、

社会のシステムにいらだちながら、

そこに安住したい自分もいることにも苛立っています。

 

 

 

来年以降、政府は追悼式をやらないことにしたそうですね。誰にとっての「節目」なんでしょうか。

 

 

 

本当に限られた人としか生きられなくなるかもしれないなぁとも思いながら、自分の考えを持つ度に、誰かとの距離がまたできてしまう。そこに悲しさも感じながらも、またその自分の軸に共鳴する人と新しい繋がりをもてることに喜びも感じています。

 

 

 

最近は自分の内側から出てくる怒りを素直に出すようにしています。我慢してきた分を出し切ってしまおうとおもって。

 

 

「あの時怒ればよかった」

「あの時言えばよかった」

 

 

と後悔したくないので。

 

 

 

色んな人がいて当たり前だろうけど、

申し訳ないけれども、

私は戦争賛成原発賛成の人の話を黙ってウンウンときけるほど、聞き分けのいい子はもう出来ないなぁとも感じています。

 

 

 

区切りだの、節目だの、

「支援者」を名乗る

「偽善者」に言われて、

「まあまあ、そんな人もいるからさ」

と宥められることほど、

腹立つことは無いなぁとも思ったり。

 

 

 

 

2020年

今年の重みを感じながら、

また今年も生きていこうと思います。

 

 

 

死なずに。

生きていこうと思います。

 

 

 

 

 

慰安婦と私たち

慰安婦問題は終わってないんじゃないかと思う。心の隙間に漬け込んで隙間をどんどん拡げていき、元の場所に戻れなくなっていく。それがどれほどに辛く悲しいものか。

 

 

慰安婦やっていた人間、利用していた人間の気持ちがわからないという人もいるみたいだけれども…。

 

 

 

 

戦争のさなか拠り所のない様々な気持ちを一瞬だけでも忘れるために互いを「利用しあっていた」ということももちろん考えられると思う。もちろん、経済的な理由、快楽に溺れて、など想像すればいくらでもいろんなことがあげられるだろう。

 

 

 

 

ただ、戦争のさなかのやり場のない想いを抱えた、男と女という生き物がそのやりきれなさから芽生える恐怖や不安にのまれて搾取しあったという背景を思うと胸が痛む。生き物は危険を感じると「子孫を残さなければ」と本能的に動いてしまうという話も聞いたことがある。

 

 

 

 

その生物的本能を「逆手にとって」「恣意的に」男と女を「駆り立てて」修復不可能な傷を負わせ「魂の死」に追いやったことはあまりにも虚しい歴史だろう。それは権力者だからとか軍人だからとか男だからとか女だからとかそういったことではない。

 

 

 

 

 

「人間」という生き物としての想像力の欠如と浅はかさの現れだろう。

 

 

 

 

この状況は何も今も変わらない。世の中から風俗は消えておらずただ搾取するための「マスターベーション」を今も多くの人がし続けているのだから。

 

 

 

 

 

真実の交わりではないからこそ、本人に自覚があるないを問わず「罪悪感」が生じ、それがよりいっそう人々に「性的なものに対する異様な抵抗感」を抱かせているのではないか。

 

 

 

 

人々が搾取することをやめ、愛し合うことを学ぶことが出来れば社会はもっと優しくなれるだろうし、戦争も起こらなくなるだろう。

これは互いを赦し合うことをも意味している。私たちはどこまでも学び続け魂の課題に向き合うことになる。やることはたくさんある。ひとつでも赦すことができれば世の中にあるひとつの悲しみや苦しみがなくなることになる。それは連鎖して愛に還元されていく。

 

 

 

 

 

搾取をやめ、ただ、与える受け取りあうことを日々学ぼう。愛と対話を広めていこう。平和を叶えよう。できることは沢山あるのだから。

 

 

矛先は自分へ … 自分を抱きしめて生きること

 

 

今日は恨む、憎む、妬むことで矛先はどこ向かうのかということと、その気持ちをどうしたらいいのかについて考えます。

 

 


恨む、憎む、妬むこと。
すべてのことを奪っていったあいてを
貶めたいと思う心。
責めたいと思う心。


その気持ちは当然誰しもがもつものです。

 


私も相手を殺したいと思うほど憎んだことがありました。しかし、その結果、1番苦しんだのは自分でした。憎んだ相手は苦しんでいる人のことなど関係なしに富を得て、幸せな生活を送っているように見えました。

 

 


恨んで恨んで恨んで。
憎んで憎んで憎んで。
妬んで妬んで妬んで。

 

 


それで私はエネルギーとしては相手に確かに「呪いの念」を送ったことになりました。もしかすると、その影響を少なからず彼らも受けているかもしれません。それは今世で影響として現れるかはわかりません。来世自分が送った念が「活かされて」最悪な人生を送ることになるかもしれません。

 

 


私は相手にとことん敵意を向けることで、自分が苦しくなりました。高校生のとき、そのことによって自殺を試みましたが死ねずに終わりました。

 

 


感情が死にました。
魂の輝きなど失われ、
寂しさや虚しさに襲われました。

 

 

 


たとえ、その恨んだ相手が死んだとして
私の中の傷はいえるのだろうか
とふと思うようになりました。

 

 

 


たとえば、戦争が起こって身内が死んでしまったとして、敵に自分の大切な人が殺されたから相手の大切な人を殺すというのは美しいことでしょうか。

 

 


ここで「美しい」と使ったのは、
この問題は「正しさ」という概念で語ることが出来ないからです。

 


今、自分自身や身の回り、日本でも世界でも痛ましいことがたくさんおこっていて辛いという人もいるでしょう。そして、やり場のない怒りを特定の人にぶつけることでその場をしのいでいる人もいるかもしれません。よくこれを、自己満足を得るためのマスターベーションと表現することがあります。ただ、抜くため、逝くための虚しい作業のように行われる行為はさらなる悲しさと虚しさを呼びます。

 

 


だからといって、
安易にゆるすことはしなくていいし、出来なくていいのです。そして、恨むな、憎むな、妬むなともいいません。なぜなら、それも必要な事として人は経験するからです。

 

 


悲しみを悲しみ抜いて、
虚しさに浸って、
怒り抜いて
そんな自分を
いつか心の底からゆるして
抱きしめて
辛かったよね
よく生きてきたね
と伝えてください。

 

 


これは数ヶ月でできることではありません。
何年もかかります。
どこまでも自分と向き合って、
自分の良い友達になって
まずは自分に愛を送り続けてください。

 

 


1人でやることが難しいこともあるでしょう。
その時は、誰かを頼ってもいいのです。
日本人は人に頼ってはいけないと思い込んでいる節があります。それは潜在意識にまで染み付いてしまっています。

 

 


辛い時に辛いと言うことは決して悪いことではないし、弱いことでもない。

 

 

 


本当に強いひとは
人を頼り、相談し、
そんな自分をも受けています☆。.:*・゜

 

 


それは許しではなく、赦しなのです。
好き嫌いは許すか許さないかの次元ですが、
愛は赦しによって生まれます。

 

 


相手に向けている感情にすべてOKを出しましょう。そして、その感情をよく聞いてください。

 

 

 


繰り返しますが、
憎んでいいし、恨んでいいし、妬んでいいのです。その気持ちを抱きしめて癒してください。

 

 

 


その先に本当の意味での癒しと愛で自分が楽になっていくことを感じます。

 

 


このプロセスは何度も繰り返すことになりますが、少しずつ波が穏やかになっていきます。最初は辛くとも少しずつ、少しずつ、楽になっていきます。

 

 


必ずこの壁を乗り越えられると自分を信じてください。それが何よりもの自分へのエールになります。

 

 

 


今回は少しヘビーな内容になりましたが、
悩んでいる人、苦しんでいる人にヒントになればと思います。


いつもありがとうございます。
また更新します。

 

 

立ち読みした本から学ぶ

今日立ち読みした本で、
世界の問題に責任を感じて、罪悪感を抱く必要は無いという項目があり、そこだけ読み進めた。
書いてあったことは、
「ボランティアや情報収集に時間を費やすより、その時間にお金を少しでも稼いで適切にそのお金を使ってくれる団体に一刻も早く寄付する方が懸命だ」
ということだった。

 

 

 

〇〇頑張れ

 

 

 

 

という言葉。

 

私がその言葉に強い嫌悪感を抱くのは
山形に自主避難した後に
「頑張ろう東北」
と書かれたのろしが駅前にあったからだ。

 

 

 

しかし、山形の人の多くは「普通」に過ごしているように見えた。それは福島の人の多くがあの時「普通」にしていたこととは違う「普通」さだった。

 

 

 

少なくとも私の身の回りの山形に住む人は
「そういえば原発事故あったよね」
「あれ?震災から何年目?」
放射能?よくわかんないよ」
「大変だったね。頑張ってね。」
という感覚。

 

 

 

わかってほしいなんてことは烏滸がましいのも重々承知。

 

 

 

 

でも、流石にあの時は孤独を感じた。
同じ東北、隣の県なのに。

 

 

 

たとえ、何歳であろうと、その経験する事柄への感度はそれぞれ異なる。それこそ、「感受性の違い」というものだろう。

 


講演会でもたまーに言われる。
頑張ってね。と。

 


一緒に頑張りましょう。
というか、頑張ってください。
お願いします。


と私は返す。


向こうは
いや、あなた若いし、まだこれからでしょ。
私たちはどうせ死ぬから。


と、言うこともある。


ここまで来ると、
流石に私も半ギレする。
諦めないでください、
ってさっき講演会で私言いましたよね?
もう死ぬから若い人よろしくなんですか?
いいんですかそれで?

 

 


だいたいこの辺まで来ると向こうは黙る。
嫌われても構わないと思う。
正当性を振りかざしても、それは相手を傷つけることにしかならないのも分かってる。
でも、申し訳ないけど、
これは言いたいから言うようにしてる。
わかって欲しいのはエゴだとしても、傲慢だとしても、それでも伝えたいから。
私は悲しいから。辛いから。

 

 

 


「太郎さん、れいわ、頑張れ」
「期待してます」
「もっとやれる」
「あそこがダメなんだよなぁ」

 

 

 

こういう投稿を見てしまうと、

なんちゃって支援者やめろよ、って思う。

 

 

 


なんちゃって愛の話は先日ブログにも書いたけれども、なんちゃってを平気でやってのける人は「偽善者」でしかない。

 

 

 

とはいえ、私もなんちゃってをやらかすことがある。その度に、「あークソだーやっちまったぁ」と思う。

 

 

 

頑張ってください
頑張れよ

 

これ以上何頑張るねん。
それが当時15歳の私の気持ちだった。

 


今では
「一緒にやるからさ、もっと休んでいいよ」
って言ってもらいたいなぁとも思う(笑)


でも、間接的にこの意味に近い振る舞いをしてくれる人もいる。それは私にとって「素敵な大人」「尊敬する大人」。

 

若いから、女の子だから、避難者だから、そんなことで私をカテゴライズする人は身近に今はいない。それは私にとってすごく幸せなこと。

 

 

もっともっと、素敵な人が増えたらいいなと思うし、私もその人たちの仲間入りができたらなぁと思う。

 

 

素敵で、かっこよくて、スパーンとしてる「大人」に続きたい。

 

本当に人を応援するとは

まず
自分が諦めないこと
そして
できることで自分も行動すること

時に人は
できることの範囲が狭いことに罪悪感を感じてしまうこともある。
私なんて大したことできませんの。と。
じゃぁ、どこまでいったら大したことになるの?とツッコミたくなる。
漫才みたいで面白いね(笑)
自分が精一杯やっとったらそれでええねん。
それがベストなんやから。
それが努力するってことなんやから。

 

 

長ーくなったわ。
読んでくださってありがとう。

 

 

この選挙に一喜一憂してからも

れいわ新選組にあーあ太郎がいないなら意味がない、とか

逆に太郎がいるから応援する、とか、

いろんな声があるとおもうし、それはそれでいいと思う。

 

 

ただ、私はもしも、この国を本気で変えていくならば、

彼らだけに任せていくのは違うだろうと感じている。

 

 

一人ひとりが変わらなければならないという時代になったが、

いつまでたっても良くも悪くも他人に人生を任せていては

何も前に進まないのだ。

 

 

人生の主人公はいつも自分であり、

自分自身が生きていかなければならない。

 

これは誰しもがそうなのだ。

 

誰かに依存しているから、がっかりしたり、期待したりする。

自分以外の誰かに求める。

 

もちろん、できないことを「頼る」ということは悪いことではない。

ここで問題としているのは「依存する」ということだ。

 

 

相手に生きる選択肢を渡してはいないか。

本当に自分の人生を歩んでいるのかといえば、

自信をもってハイと答えられる人の方が少ないのではないか。

 

 

「あなたもまた安倍である」

または

「安倍である可能性を含んでいる」

 

と最近の講演会でも話をしている。

 

 

相手に生きることを任せ、

ただ、言われたままに過ごしていく。

ただのイエスマンに成り下がっている。

これは右左も関係ないこと。

 

 

とにかく、自分のことを自分で決めることができない。

相手の都合で動かされていくことを選んでいるという人は

結局、自分がなにかしているつもりになってしまうだけで

何も変わらないのだ。

 

 

私は私

 

 

といえる強さをこれからはもって生きていくことになる。

価値というものも変わっていく時代に、

生きていくために必要なことは本当にシンプルなものだけになる。

しかし、そのシンプルなことほどできないというのが今の日本人。

自分を愛するということ、信じるということ、自由に生きること、

その意味も方法も難しく考えすぎてしまって、前に進めない。

これはこんな文章を偉そうに書いている私自身もそうである。

 

 

これから変わっていくし、変えていく。

その覚悟を持つこと。

いきなりそれをやるのはあまりにも大変だろう。

少しずつでいいと思う。

ただ、時間は余り残されてもいない。

 

 

自分を甘やかさずにどれだけできるだろうか。

地球の寿命も刻々と短くなっていく。

七代先までの未来に私達はどう向き合っていくのか。

何をしていくのか。

 

これからをしっかりと見据えて生きたいとおもう。