「生きる覚悟」と「希望の光」~原発事故で自主避難した「15歳の少女」からの告発~

原発事故で自主避難者した経験から生き残る術を模索するブログ

安倍政権を変えたいと思っている方へ

こんばんは。

 

 

政府はとうとう、1世帯2枚のマスクを配布することにしたようです。

うーん、、、、

 

 

 

 

この対応について私自身はとてももやもやしています。

なんでこんなことになったかなーと。

 

 

 

 

 

〇〇(今回なら国、政府)が、こうしてくれないの。

もっとこうしてよ!とお願いすることってとても大事だとは思うんです。

というか、言わないと相手もわからないし、

変わらないのも事実なので。

(私も政党やら、国やらにHPから要望を書いて送りました。)

 

 

 

 

ただ、この時に

「してもらうのが当たり前」

スタンスで相手に伝えてしまうと、

向こうはあまり乗り気になってくれないんですよね。

 

 

 

 

 

ここがすごく難しいところで。

私もどうそこを伝えたらいいのかがいまいちわからなくてもやもやしているのですが、

確かなことは「相手がどうでてきたとしても私はこう生きていこう」

とはっきり自分の中でまずは決めてしまうことだと思うんですよね。

 

 

 

 

私は、政府が現金支給をしてくれない場合は、最悪お金を借りるのもアリだと思っています。

確かにこれ以上借金はしたくないのですが、

社会福祉協議会やらもお金を貸してくれるそうです。

 

 

 

 

私の場合は、クレジットカードが使えるので、

キャッシング枠も残っているので、

そちらを使うという方法も最悪ありかなと思っています。

 

 

 

 

とはいえ、

これだけ高い税金払っていて、有効に使えていないのってどうしてなんでしょうか。

漫才のような答弁もいい加減にしてくれ~という気持ちになりますよね。

 

 

このブログを読んでいる方にも是非お伝えしたいのは、

選挙にいってないのなら絶対に次は行ってほしいということです。

国民が政府に無関心だから、政府も私たちに無関心なのですから。

 

 

 

 

 

 

なんだか、釈然としない毎日なのですが、

子どもを学校にいかせることも、

「だって政府が学校開始するっていったから」

というのは言い訳にはできないんですよね。

 

 

 

 

 

「じゃあ、あなたは誰かに行かせるな、って言われないと行かせないんですか」

という話になるわけです。

 

 

 

これは原発事故の時もそうだったのですが、

「だって政府が」とか「学校が」とか、そんなことは命をないがしろにしていい言い訳にはならないんです。

 

もちろん、基本的に、そもそも、政府や学校が命をないがしろにする判断をしているところが問題でもあるのですが、そのあり得ない前提があったとしても、命に係わる選択を誰かに代わりにしてもらっていい理由なんてどこにもないんです。

 

 

その基本的な「人権意識」があまりにもなさすぎます。

 

 

結局何が大事なのかもわからなくなってしまっているから、

大切なものを守ることもできなくなってしまっているんだと思います。

 

だってそんなこといっても国が、周りが何もしてくれないんだもん、

 

というのはあまりにもわがままです。

 

子どもがいうならわかります。

未成年の子どもから、

「だって大人がそう勝手に決めたんだ」

といわれたら、私たちは何も言えません。その通りなのですから。

 

 

でもいいですか?

成人したいい大人が言っていいことではないんです。

もちろん、私の世代(20代)の人たちは特に安倍政権が誕生する時にはまだ未成年だった人も少なくありません。

原発が爆発したときも私はまだ15でした。

 

 

 

だからこそ、今の社会にとてつもなく怒りを覚えます。

誰がこんな世の中にした。と毎日のように思います。

ただ、それを言ってるだけでは何も変わらないのです。

だからこそ、できることをしましょう、と伝えたいのです。

 

 

やることやりましょう。

 

たとえば教育委員会に連絡するとか、地元の議員に連絡するとか、

そういう現実的なアクションを起こしていかないと物事は変わりません。

 

 

 

 

そんなことしても無駄、といいながら、

政府に対しての文句しか言わないのは

それはあまりにも人生を他人に任せすぎです。

やれることをやりましょう。

 

 

 

 

確かにそもそもそんなことをしなくとも、まともに機能する政府であってほしいし、

こんなことで市民が分断されることは喜ばしいことではありません。

ただ、それを理由にして「行動しなくていい」ということにはなりません。

 

 

 

 

怒るなら怒るで、覚悟をもって怒りましょう。

嫌なものは嫌、

好きなものは好き、

とはっきりと言いましょう。

そのうえでどうしてほしいのか、きちんと伝えましょう。

こちらはこんなことで困っているので、こうしていただけませんか?と。

きちんと対話する姿勢が大切です。

 

 

 

子どもにはその判断が難しくて出来ないことも多いですが、

コロナはじめ、命にかかわるような出来事については子どもたちはとても的確な判断をくだします。

社会のシステムに侵されていない、シンプル、純粋なアンサーを出してくれるのです。

 

 

 

 

そんな子どもたちを守れない、というのは本当に悲しいことですえーん

 

 

 

大人だから子どもの前では笑ってましょう、

というのはちょっと違います。

子どもはそれすらも敏感に感じ取ってしまうのですから。

 

 

 

 

一緒に、怖いよね、

といって思いを共感したり、

こんなときだからこそスキンシップを大切にしたりしてください。

(ただし、今回は、感染症なのでスキンシップは危険かもしれません・・・本当にこれがつらいのですが…)

 

 

 

 

 

大人の都合によってこどもたちはじめ、

弱い立場の人たちからどんどん命を落とす可能性が高くなります。

それは、コロナだけではなく、他のことで亡くなる可能性もあります。

経済的貧困による餓死、

親のストレスによる虐待死、

ストレスによる暴飲暴食

アルコール中毒、煙草の量が増える、

DV、セクハラ、、、、

あらゆるところでしわ寄せがやってきてしまうことも懸念されますショボーン

 

 

 

 

 

絶対にそんなことは起こらないというマインドを大切にして、

そっちの設定で生きるということももちろんできなくはないですが、

そのことによって、実際に困っている人たちを見捨てることになるのも私は怖いなとも思っています。

 

 

 

 

 

だからどうしろ、という話でもないのですが、

今大切なのは一人一人が、自分の生きる軸を大切にして、

 

 

本当に自分が何をしたくて、したくないのか、

何ができて、何ができないのか

誰とどこにいたいのかということを明確にすることだと感じています。

 

 

 

 

生き方を変えないと生き残れないということが

現実味を帯びて目の前にやってきているという人も多いかと思いますが、

必ずこの状況は打開できる能力を一人一人が持っているはずです。

それは勇気のいることもかもしれないし、

痛みを伴うかもしれませんが、その先にある幸せのビジョンを忘れずに歩めば必ず活路は開けます。

 

 

最後に、若者に自粛を、と言っている人たち。

そして若者の皆さん。

私たちに罪はないです。

こんな社会のベースを作ったのは間違いなく私たちの上の世代です。

でも、おそらく、このことを言うと、

「私たちの時からそうだった」

とか、

明治維新の時から…」

とか、いろいろ話が出てきて、誰が悪いか、という終わりなき犯人探しが始まるのだと思います。

 

そんなあほらしい議論をしたいわけではありません。

ただ、今の社会が出来上がってしまったのはどうしてなのか、

ということを自問自答したうえで、若者に物言う前に、やることやってほしいです。

 

原発事故後も言われてきましたが、

これからは君たちの時代だからよろしく、頑張って

と何気なく私たちに任せようとする人もいますが、

いつも、「それは違います。一緒に頑張りましょう。」と伝えるようにしています。

 

 

一緒に変えてください。

申し訳ない、と若い世代に思っているのなら、なおさら、

一緒に変えていく努力をしてください。

力を貸してください。安倍政権、他の為政者たちを変えることも大切ですが、

まずは私たちが一人一人が生き方と考え方を変えていきましょう。

私たちに彼らが巻き込まれて、変わらざる得ないくらいに、

私たちが変わりましょう。それしか方法はありません。

私ももっと変わります。

 

読んでくださってありがとうございました。

また、更新します。

 

コロナウイルスと問われる「生きる覚悟」

こんばんは

 

 

今月は道新、札幌市面に大きく載せていただけて感謝です。ありがとうございます。

 

 

 

コロナ騒動。

 

 

 

原発事故とのデジャブを感じています。

 

 

 

そして、

やはり、行き着く私の問は同じ。

 

 

 

何をしたくて、何をしたくないのか。

何ができて、何が出来ないのか。

そして、

誰といて、どこにいたいのか。

 

 

 

 

 

私の中の砂時計がまた動き出しました。

いつ動くのか、とモヤモヤしていましたが、

とうとう。

 

 

 

 

数ヶ月後、私は新しい土地にいることでしょう。

新しい人達に囲まれて。

 

 

 

 

私の場所に還っていきます。

 

 

 

 

またぽつりぽつりと思うことがあれば綴ります。

noteももう少し投稿増やします。

 

 

 

 

いつもありがとうございます。

また更新します。

制御不能のシステム社会

制御不能になった機械を止めるのに、人が入ってハンドル回しに行くんだよ。他に何がある?誰かが人柱になればいい、と嗤ってる。

これは原発だけの話じゃない。

この狂った「社会システム」という制御不能なものに、どうやって歯止めをかけるのか?って?勝手にオワタんになるのを待つのか?また爆発するのをみてる?高みの見物?あー怖いーって言いながら?

そのシステムの歯車になって機械を回してる自分を必死に守って、誰かが人柱になっていくのを嗤ってみて。

怒らないでもっと穏和に。
頑張れ、○○。

歪んだ応援に
歪んだ愛。

優しい社会
とかいいながら、
どこに向かうの?

貴方はどこへ向かうの?
私はどこへ向かうの?

 

 

大きな独り言…

 

飛行機ももちろん、フクイチの放射性物質をうけて飛んでいるのもあるわけで。行った先、または飛行機の中で被ばくして、帰ってきてから体調崩す人の話も少なくない…。ただ…ふと最近思うのは…今世…やらんと後悔しそうなことをやらんで終わることは嫌だなぁとも思う…。

あの人に…あの場所に…あの時…
被ばくするから…
という理由で…

私の心は揺らいでる。
被ばくしてまで…
そのリスクを背負ってまで…
行かなきゃ行けないのか?…

師(勝手に師だと思ってる(笑))には言われるだろうし、行けばまた…私の中の時限爆弾が炸裂するかもしれない。

それでも…

会いたい人に会って、
行きたい場所に行きたい……
リスクをできるだけ回避しながら…

きっと…それを
甘い
と、師をはじめ、もっと気をつけている人や、それこそ、数年前の私なら言うだろう…。

私は「甘く」なったのかもしれない…
それは「諦め」なのか…
はたまた…また…数年前抱いた「覚悟」とは違う「覚悟」をもっただけなのか…

綺麗事をいえば、
「甘く」なったのではなく…
「ゆるせる」ようになったのかもしれない…

「仕方ない」

と、言えるような…
心から…
「だってにんげんだもの(仕方ない)」
と、言えるようになったのかもしれない……。

ゆるし、という名の逃げ、なのか、、、。

だれも答えなんて知らない…。

命の天秤

3年間の高校生活と命(健康)を天秤にしたあの時と違うのは…

今の私は
私の人生と地球の時間 を天秤にかけているということ。

まだ空にいる…私の子どもは…
私を見て何を思っているだろうか…
…ごめんよ
まだ、君をこっちに呼べるほど、
君が来たいと思えるほど、
こっちの世界も私も、準備はできてない気がするんだよ…。

今世は今世しかない…
今は今しかない……

だとしたら…
私はどこに向かいたいのか…
今年、3年後、6年後…私はどこにいたい?
何をしてたい?

今年、3年後、6年後…
あの場所はまだ存在してる?…
あの人はまだ生きてる?…

私は
どんな夢がある…?
いま、何がしたいしたくない?…
誰とどこにいたい…?

また私は自分のプレゼンのスライドを見ながら、自問自答する…。

未来を決めない
今目の前の選択を全力で…
したいことを…したいように…
…できたらいいよな……

2020年の嘆きの中に見出す希望の光

こんばんは。ご無沙汰しております。

 

 

このブログも毎日誰かは見てくれているようで、

なんだか、更新もあまりしなくなってしまったのに申し訳ないような気持ちもありながら…。

 

 

今年は、

☆講演会

☆保健室作り

☆執筆本の出版

の三本立てで動いていこうと思っています。

 

 

 

やらない理由探しは相変わらずやめられず、

社会のシステムにいらだちながら、

そこに安住したい自分もいることにも苛立っています。

 

 

 

来年以降、政府は追悼式をやらないことにしたそうですね。誰にとっての「節目」なんでしょうか。

 

 

 

本当に限られた人としか生きられなくなるかもしれないなぁとも思いながら、自分の考えを持つ度に、誰かとの距離がまたできてしまう。そこに悲しさも感じながらも、またその自分の軸に共鳴する人と新しい繋がりをもてることに喜びも感じています。

 

 

 

最近は自分の内側から出てくる怒りを素直に出すようにしています。我慢してきた分を出し切ってしまおうとおもって。

 

 

「あの時怒ればよかった」

「あの時言えばよかった」

 

 

と後悔したくないので。

 

 

 

色んな人がいて当たり前だろうけど、

申し訳ないけれども、

私は戦争賛成原発賛成の人の話を黙ってウンウンときけるほど、聞き分けのいい子はもう出来ないなぁとも感じています。

 

 

 

区切りだの、節目だの、

「支援者」を名乗る

「偽善者」に言われて、

「まあまあ、そんな人もいるからさ」

と宥められることほど、

腹立つことは無いなぁとも思ったり。

 

 

 

 

2020年

今年の重みを感じながら、

また今年も生きていこうと思います。

 

 

 

死なずに。

生きていこうと思います。

 

 

 

 

 

慰安婦と私たち

慰安婦問題は終わってないんじゃないかと思う。心の隙間に漬け込んで隙間をどんどん拡げていき、元の場所に戻れなくなっていく。それがどれほどに辛く悲しいものか。

 

 

慰安婦やっていた人間、利用していた人間の気持ちがわからないという人もいるみたいだけれども…。

 

 

 

 

戦争のさなか拠り所のない様々な気持ちを一瞬だけでも忘れるために互いを「利用しあっていた」ということももちろん考えられると思う。もちろん、経済的な理由、快楽に溺れて、など想像すればいくらでもいろんなことがあげられるだろう。

 

 

 

 

ただ、戦争のさなかのやり場のない想いを抱えた、男と女という生き物がそのやりきれなさから芽生える恐怖や不安にのまれて搾取しあったという背景を思うと胸が痛む。生き物は危険を感じると「子孫を残さなければ」と本能的に動いてしまうという話も聞いたことがある。

 

 

 

 

その生物的本能を「逆手にとって」「恣意的に」男と女を「駆り立てて」修復不可能な傷を負わせ「魂の死」に追いやったことはあまりにも虚しい歴史だろう。それは権力者だからとか軍人だからとか男だからとか女だからとかそういったことではない。

 

 

 

 

 

「人間」という生き物としての想像力の欠如と浅はかさの現れだろう。

 

 

 

 

この状況は何も今も変わらない。世の中から風俗は消えておらずただ搾取するための「マスターベーション」を今も多くの人がし続けているのだから。

 

 

 

 

 

真実の交わりではないからこそ、本人に自覚があるないを問わず「罪悪感」が生じ、それがよりいっそう人々に「性的なものに対する異様な抵抗感」を抱かせているのではないか。

 

 

 

 

人々が搾取することをやめ、愛し合うことを学ぶことが出来れば社会はもっと優しくなれるだろうし、戦争も起こらなくなるだろう。

これは互いを赦し合うことをも意味している。私たちはどこまでも学び続け魂の課題に向き合うことになる。やることはたくさんある。ひとつでも赦すことができれば世の中にあるひとつの悲しみや苦しみがなくなることになる。それは連鎖して愛に還元されていく。

 

 

 

 

 

搾取をやめ、ただ、与える受け取りあうことを日々学ぼう。愛と対話を広めていこう。平和を叶えよう。できることは沢山あるのだから。

 

 

矛先は自分へ … 自分を抱きしめて生きること

 

 

今日は恨む、憎む、妬むことで矛先はどこ向かうのかということと、その気持ちをどうしたらいいのかについて考えます。

 

 


恨む、憎む、妬むこと。
すべてのことを奪っていったあいてを
貶めたいと思う心。
責めたいと思う心。


その気持ちは当然誰しもがもつものです。

 


私も相手を殺したいと思うほど憎んだことがありました。しかし、その結果、1番苦しんだのは自分でした。憎んだ相手は苦しんでいる人のことなど関係なしに富を得て、幸せな生活を送っているように見えました。

 

 


恨んで恨んで恨んで。
憎んで憎んで憎んで。
妬んで妬んで妬んで。

 

 


それで私はエネルギーとしては相手に確かに「呪いの念」を送ったことになりました。もしかすると、その影響を少なからず彼らも受けているかもしれません。それは今世で影響として現れるかはわかりません。来世自分が送った念が「活かされて」最悪な人生を送ることになるかもしれません。

 

 


私は相手にとことん敵意を向けることで、自分が苦しくなりました。高校生のとき、そのことによって自殺を試みましたが死ねずに終わりました。

 

 


感情が死にました。
魂の輝きなど失われ、
寂しさや虚しさに襲われました。

 

 

 


たとえ、その恨んだ相手が死んだとして
私の中の傷はいえるのだろうか
とふと思うようになりました。

 

 

 


たとえば、戦争が起こって身内が死んでしまったとして、敵に自分の大切な人が殺されたから相手の大切な人を殺すというのは美しいことでしょうか。

 

 


ここで「美しい」と使ったのは、
この問題は「正しさ」という概念で語ることが出来ないからです。

 


今、自分自身や身の回り、日本でも世界でも痛ましいことがたくさんおこっていて辛いという人もいるでしょう。そして、やり場のない怒りを特定の人にぶつけることでその場をしのいでいる人もいるかもしれません。よくこれを、自己満足を得るためのマスターベーションと表現することがあります。ただ、抜くため、逝くための虚しい作業のように行われる行為はさらなる悲しさと虚しさを呼びます。

 

 


だからといって、
安易にゆるすことはしなくていいし、出来なくていいのです。そして、恨むな、憎むな、妬むなともいいません。なぜなら、それも必要な事として人は経験するからです。

 

 


悲しみを悲しみ抜いて、
虚しさに浸って、
怒り抜いて
そんな自分を
いつか心の底からゆるして
抱きしめて
辛かったよね
よく生きてきたね
と伝えてください。

 

 


これは数ヶ月でできることではありません。
何年もかかります。
どこまでも自分と向き合って、
自分の良い友達になって
まずは自分に愛を送り続けてください。

 

 


1人でやることが難しいこともあるでしょう。
その時は、誰かを頼ってもいいのです。
日本人は人に頼ってはいけないと思い込んでいる節があります。それは潜在意識にまで染み付いてしまっています。

 

 


辛い時に辛いと言うことは決して悪いことではないし、弱いことでもない。

 

 

 


本当に強いひとは
人を頼り、相談し、
そんな自分をも受けています☆。.:*・゜

 

 


それは許しではなく、赦しなのです。
好き嫌いは許すか許さないかの次元ですが、
愛は赦しによって生まれます。

 

 


相手に向けている感情にすべてOKを出しましょう。そして、その感情をよく聞いてください。

 

 

 


繰り返しますが、
憎んでいいし、恨んでいいし、妬んでいいのです。その気持ちを抱きしめて癒してください。

 

 

 


その先に本当の意味での癒しと愛で自分が楽になっていくことを感じます。

 

 


このプロセスは何度も繰り返すことになりますが、少しずつ波が穏やかになっていきます。最初は辛くとも少しずつ、少しずつ、楽になっていきます。

 

 


必ずこの壁を乗り越えられると自分を信じてください。それが何よりもの自分へのエールになります。

 

 

 


今回は少しヘビーな内容になりましたが、
悩んでいる人、苦しんでいる人にヒントになればと思います。


いつもありがとうございます。
また更新します。