「生きる覚悟」と「希望の光」~原発事故で自主避難した「15歳の少女」からの告発~

原発事故で自主避難者した経験から生き残る術を模索するブログ

三浦綾子から学ぶ

世の中に、特別に大事な人があってはならぬ。

特別に大事な人がいるということは、

大事でない人がいるということになる。

人間は皆同じなのだ。

「生かされてある日々」より抜粋 

 

比べることで差別、自惚れ、卑下が始まる

 

華を咲かせる

 

三浦綾子さんのすごいところは、自分のことを省みるということを必ずするということだ。彼女の作品の多くは罪と赦しと悔い改めをテーマにした物が多い。それは、三浦綾子さんが歩んできた人生そのものを物語っていると言える。


自分は彼よりも、彼女よりも大変な目にあった。

自分は彼よりも、彼女よりもまだまし。

 

もしも、一人ひとりを同じ人間としてみることが出来ていたら、その心の痛みなど比べることなど出来なければ、また同じ物事でも経験尺度がちがうということはすぐに理解できるのではないか。

 

しかし、私たちは傲慢にも人に自分の苦しみについて理解してほしいと思うことが多い。しかし、他人には自分の痛みを100%理解することなどできない。ただ、理解しようと努力することができるだけ。

 

彼女の作品の中で多くの学びがある作品といえば、やはり氷点だろうか。

 

自分の罪。人のことを指さしながらも、自分はその相手に石を投げつけることなどできない。それはマグダラのマリアもそうであったように。

たとえ、相手が誰であろうと、誰一人として、その相手に石を投げつけることなどできない。自分はその罪人と何が違うのかという問いをこの本で問われる。

 

人は、自分の正しさの中にとじてしまう。自分の正しさ常識など、ある人から見たら非常識であって、誰一人として同じ常識で生きている人なんていない。

 

私は正直最近のSNSを見ていて疲れる。それは、右、左、真ん中、とそれぞれが、意見を交わしているように見えながら、なんの話も進まない、ただ、叫んでお互いをけなし合うというみっともない人権侵害がそれぞれに行われているからだ。

 

それぞれに、罪はある。ましてや、原発を作ってきた上の世代であれば、全員にその問題の責任があるとでも言えてしまうくらいに。

 

極論かもしれない。でも、よく考えてみればわかる。地球から見たら、私達は、罪人だろう。地球という体を好き勝手汚されて、好き放題されて。

 

命というものが蔑ろにされているという現実を無視して、それに付随する様々な問題だけを取り上げて、声高に叫ぶ。

 

私は綾子さんや光世さんが生きていたらと思うことがある。彼らが生きていたら、今の世の中をなんと言っただろう。どうおもっただろうか。かと。

 

好き・嫌いは愛することとは関係ない

探す

探す


三浦綾子さんの言う愛というのは、本当に深い愛だ。神の愛はどれほどまでに深いかということを考え抜いたからこそ、彼女のような考え方ができるのだとおもう。

人は好き嫌いで人や物事を考えがちだ。好きだから、嫌いだから、あの人のことは愛してない。という人もいる。

でも、それは本当だろうか。嫌いだから、愛していない。本当にそうなのか。

結婚は、信頼関係だと言う話を聞いたことがある。結婚は何も好きとか、嫌いとかでするものではない。そのひとが言うには、愛ということをいいたかったのだとおもう。信頼関係は愛というのは、私も考えたことがなかった。多くの人は、信頼関係といったら、「あのときこうしてもらったから」「こういうことをしてくれたから」という何らかの条件付が必要になることが多い。

 

条件付。でも、愛は、条件はない。無条件の愛なのだ。もちろん、愛にも様々な形がある。条件つきの愛もあるだろう。でも、私はそんな愛はほしくないと思ったし、与えたくないと思っている。もしも、条件があるならば、それは好きである理由でしか無い。愛する理由にはなりえない。

 

でも、それは私の常識であって、他の人の常識ではない。それこそ価値観の違いなのだろう。私は条件付きの信頼関係というものをもともと、知らないのかもしれない。だから8年前に、本当に虚しくなってしまったのかもしれない。自分はただ、無垢に、なんの理由もなく、周りの言葉を純粋に信じていた。それは無条件の信仰心ともいえた。だが、それが目の前で裏切られて、切り刻まれて、全部、嘘だよ。と見せられて、愕然としてしまった。

 

話を戻そう。実際のところ重要なのは、好き嫌い、善い悪いという観点ではなくもっと広い視野で自分が納得できるかどうかということなのだろう。赦すこと=愛することだとするならば、差別を生むものは赦しからは遠い者であるといえる。右も左も、真ん中も、言動によって誰かを裁いていないか。人を裁くものはまた同時に自分を裁いている。自分にバツをつけるものは周りにもバツをつける。

 

「隣人」時にはそれは「敵」かもしれない。なぜなら、同調したものも、また、同様に同じ穴のムジナとも言えるから。私は私でしか無いのに、いつの間にか、他人の人生を悠々とあるく。それが正しいかのように。でも、それは人間として生きている限り、仕方のないことなのかもしれない。ただ、私は思う。この場に及んで同調圧力に屈して、自分の人生を周りに丸投げして良いものなのだろうかと。ここまで自分の人生に責任を持たない生き方のままでいいのか。と。私は、それは嫌だと思って自分の人生をようやくここ数年ではじめたばかりだ。

 

隣人というのは、時に、家族だったり、自分の近しい人であり、その人達が自分の人生をメタメタにしてくるということもある。ときには心の死を経験させられる相手でもある。私たちはその相手を愛することができるだろうかということについて綾子さんは多くの著書で言及している。敵を愛する。でも、愛というものは必ずしも好きということとイコールではないということを知っていると気が楽になるかもしれない。敵を愛するということは赦すことでもある。つまりそれは、許せないということを赦すということでもある。あー、私はあの人を許せん。頭にくる。苦しい。辛い。その思いを感じきって、自分を抱きしめる。

 

それでいいんだ。と。

 

私は8年前、自分を許せなかったし、赦せなかった。

その事によって私はさんざん自分のことを痛めつけてきた。

周りの非情さが許せなかった。

命をないがしろにする大人たちがゆるせなかった。

私の友達や大切な人や、自然が蔑ろにされていくのがゆるせなかった。

泣きたくても泣けない日々がそこにはあった。

泣けば、圧力をかけられ、感情が死んだ。

心の死がそこにはあった。

満たされない心を慰めるために、手を染めてはならないこともした。

でも、それでも満たされなかった。

「愛」を探していた。

ふと、数年たっていろんな出会いがあった。

綾子さんの本にも立ち戻ることもおおかった。

気がついたのは、「自己愛」だった。 

私は愛されたかった。

でも、それは外に求めても埋まることのない、愛だった。

私は私を愛することができていなかったのだ。

 

それに気がついたとき、私は愕然とした。

何も無い、私を、魂だけになった私を、誰が愛するだろうか。と。

2011年は失意のトンネル

2012年は死のトンネル

2013年は模索のトンネル

2014年は薄い光が視えるトンネル

2015年はトンネルから出て光になれる日々

2016年は外の世界を知る日々

2017年は生きる意味を探す日々

2018年は生きる覚悟を持つ日々

 

私は去年、ようやく、自分のなかで何かが変わったのを感じた。

それは自分に自信がもてるようになったということ。

何かができるようになったわけではない。

ただ、何もできなくても、誰かを助けられなくても、

ただ、ありのまま、自分の今の現時点を認めて、愛するということ。

それは甘えでもなく、ただ、肯定した。

私はそうなんだな。と。

自分が嫌いということもなく、しいて言えば好きということもなく、

ただ、私がここにいるということが本当に素晴らしいことなんだということを知った。

そんな一年だった。

「私」が「私」でいていい。

そう思えたことが何よりも大きな収穫だった。

 

愛すること

愛

愛すること

自分のことを愛するかのように、相手のことを愛することが出来るのかどうか。

ということを問われているのが三浦綾子さんの作品だ。

 

 振り返ってみた時に、自分の日々の傲慢さについて思い知らされます。他人を傷つけたくない、助けたいという思いが逆に自分自身から逃げているという要因になっていることもあります。

 

自分を愛するということができない人に、相手を愛することもできない。

相手に尽くすことができても自分に尽くすことのできない人は、やっていることがすべて偽善になりえる。

自己犠牲ほど、自分勝手なものはない。特攻隊の美学を信じてしまうようなそういう精神。根性論。プライド。

そんなもの、捨ててしまえ。

それが去年の私の課題だった。

等身大の私が今ここにいて私はうれしい。 

 

自分は生かされている人間だということ

 

生きる

生かされる

おかげさまでということばがあるが、正にこれだろう。

自分は常に生かされている。そして逆に誰かを生かしてもいる。

そのことを理解した時に自死を選ぶということがどういうことかということについて考えさせられるのだろうと思う。氷点に出てくる陽子は自分の行いを悔いたとき、その自分が自分を大切にしていないという現状に愕然としたのだと思う。そして、そのことがまた、誰かを傷つけることになるということも。

 

誰からも愛されていないし、必要とされていない。

 

というひともいるが

私はわたしのことが愛せない。

それほど、悲しく、虚しいことはない。

 

誰からも愛されてない、あなたの一番の味方になれるのは自分自身だけ。

自分のどん底を救えるのは、他の誰でもなく、自分なのだ。

 

誰かを助けたいという気持ちがあり、与えたいという気持ちにみなぎっているというとき、人は自己愛が満ちているという状況にも思える。でも、時には自己犠牲ということもある。自分のことは良いから、あの人を助けてほしい。それは、美しいけれども、自分を大事にできない人はいつか跳ね返ってくる。

 

自分に報いなかったら、本当に辛くなる。

それは自分でもっと自分のことを認めて、愛して、休ませてあげたりするということなのだが、それを自分でしないと、突然病気になったり、プランが破綻したりと、人生の壁にぶち当たる。あんたもっと自分のことを大事にしなさい。と言われてしまうのだ。

 

人生というのは不思議でそういうふうにできている。

 

また、相手に何かが足りないと嘆きたくなったとき、自分に何かが足りないのではないかと自問自答する必要がある。相手は自分の鏡だから。強いて言えば、相手の足りなさや至らなさがあるということは、相手と噛み合わない自分がいるということでもある。たとえ、自分がどれほど正論を言ってたとしても、そこは対話をするなら相手から見た自分の至らなさについても理解した上で話さなければならない。

 

生きることは難しいけど美しい

美しい

生きることは美しい

世の中には過酷が溢れている。その中で生きるということを選択して、なんとかかんとか生きることを選択している自分を褒めたい。本当に感謝しか無い。ありがとう。わたし。

 

そして、このように自分を導いてくれた多くの物事、多くの人たちに感謝したい。

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今読みたい!三浦綾子さんの本

綴り方授業によって日本がどのように戦争をしてきたのかということが彼女の「教師」だった時代のことも含めて書かれています。

彼女は自分が戦時中に犯してきた教育の罪について責任を感じていました。

是非読んでみてください。

今の安倍政権と重なるところがあります。