「生きる覚悟」と「希望の光」~原発事故で自主避難した「15歳の少女」からの告発~

原発事故で自主避難者した経験から生き残る術を模索するブログ

立ち読みした本から学ぶ

今日立ち読みした本で、
世界の問題に責任を感じて、罪悪感を抱く必要は無いという項目があり、そこだけ読み進めた。
書いてあったことは、
「ボランティアや情報収集に時間を費やすより、その時間にお金を少しでも稼いで適切にそのお金を使ってくれる団体に一刻も早く寄付する方が懸命だ」
ということだった。

 

 

 

〇〇頑張れ

 

 

 

 

という言葉。

 

私がその言葉に強い嫌悪感を抱くのは
山形に自主避難した後に
「頑張ろう東北」
と書かれたのろしが駅前にあったからだ。

 

 

 

しかし、山形の人の多くは「普通」に過ごしているように見えた。それは福島の人の多くがあの時「普通」にしていたこととは違う「普通」さだった。

 

 

 

少なくとも私の身の回りの山形に住む人は
「そういえば原発事故あったよね」
「あれ?震災から何年目?」
放射能?よくわかんないよ」
「大変だったね。頑張ってね。」
という感覚。

 

 

 

わかってほしいなんてことは烏滸がましいのも重々承知。

 

 

 

 

でも、流石にあの時は孤独を感じた。
同じ東北、隣の県なのに。

 

 

 

たとえ、何歳であろうと、その経験する事柄への感度はそれぞれ異なる。それこそ、「感受性の違い」というものだろう。

 


講演会でもたまーに言われる。
頑張ってね。と。

 


一緒に頑張りましょう。
というか、頑張ってください。
お願いします。


と私は返す。


向こうは
いや、あなた若いし、まだこれからでしょ。
私たちはどうせ死ぬから。


と、言うこともある。


ここまで来ると、
流石に私も半ギレする。
諦めないでください、
ってさっき講演会で私言いましたよね?
もう死ぬから若い人よろしくなんですか?
いいんですかそれで?

 

 


だいたいこの辺まで来ると向こうは黙る。
嫌われても構わないと思う。
正当性を振りかざしても、それは相手を傷つけることにしかならないのも分かってる。
でも、申し訳ないけど、
これは言いたいから言うようにしてる。
わかって欲しいのはエゴだとしても、傲慢だとしても、それでも伝えたいから。
私は悲しいから。辛いから。

 

 

 


「太郎さん、れいわ、頑張れ」
「期待してます」
「もっとやれる」
「あそこがダメなんだよなぁ」

 

 

 

こういう投稿を見てしまうと、

なんちゃって支援者やめろよ、って思う。

 

 

 


なんちゃって愛の話は先日ブログにも書いたけれども、なんちゃってを平気でやってのける人は「偽善者」でしかない。

 

 

 

とはいえ、私もなんちゃってをやらかすことがある。その度に、「あークソだーやっちまったぁ」と思う。

 

 

 

頑張ってください
頑張れよ

 

これ以上何頑張るねん。
それが当時15歳の私の気持ちだった。

 


今では
「一緒にやるからさ、もっと休んでいいよ」
って言ってもらいたいなぁとも思う(笑)


でも、間接的にこの意味に近い振る舞いをしてくれる人もいる。それは私にとって「素敵な大人」「尊敬する大人」。

 

若いから、女の子だから、避難者だから、そんなことで私をカテゴライズする人は身近に今はいない。それは私にとってすごく幸せなこと。

 

 

もっともっと、素敵な人が増えたらいいなと思うし、私もその人たちの仲間入りができたらなぁと思う。

 

 

素敵で、かっこよくて、スパーンとしてる「大人」に続きたい。

 

本当に人を応援するとは

まず
自分が諦めないこと
そして
できることで自分も行動すること

時に人は
できることの範囲が狭いことに罪悪感を感じてしまうこともある。
私なんて大したことできませんの。と。
じゃぁ、どこまでいったら大したことになるの?とツッコミたくなる。
漫才みたいで面白いね(笑)
自分が精一杯やっとったらそれでええねん。
それがベストなんやから。
それが努力するってことなんやから。

 

 

長ーくなったわ。
読んでくださってありがとう。