「生きる覚悟」と「希望の光」~原発事故で自主避難した「15歳の少女」からの告発~

原発事故で自主避難者した経験から生き残る術を模索するブログ

慰安婦と私たち

慰安婦問題は終わってないんじゃないかと思う。心の隙間に漬け込んで隙間をどんどん拡げていき、元の場所に戻れなくなっていく。それがどれほどに辛く悲しいものか。

 

 

慰安婦やっていた人間、利用していた人間の気持ちがわからないという人もいるみたいだけれども…。

 

 

 

 

戦争のさなか拠り所のない様々な気持ちを一瞬だけでも忘れるために互いを「利用しあっていた」ということももちろん考えられると思う。もちろん、経済的な理由、快楽に溺れて、など想像すればいくらでもいろんなことがあげられるだろう。

 

 

 

 

ただ、戦争のさなかのやり場のない想いを抱えた、男と女という生き物がそのやりきれなさから芽生える恐怖や不安にのまれて搾取しあったという背景を思うと胸が痛む。生き物は危険を感じると「子孫を残さなければ」と本能的に動いてしまうという話も聞いたことがある。

 

 

 

 

その生物的本能を「逆手にとって」「恣意的に」男と女を「駆り立てて」修復不可能な傷を負わせ「魂の死」に追いやったことはあまりにも虚しい歴史だろう。それは権力者だからとか軍人だからとか男だからとか女だからとかそういったことではない。

 

 

 

 

 

「人間」という生き物としての想像力の欠如と浅はかさの現れだろう。

 

 

 

 

この状況は何も今も変わらない。世の中から風俗は消えておらずただ搾取するための「マスターベーション」を今も多くの人がし続けているのだから。

 

 

 

 

 

真実の交わりではないからこそ、本人に自覚があるないを問わず「罪悪感」が生じ、それがよりいっそう人々に「性的なものに対する異様な抵抗感」を抱かせているのではないか。

 

 

 

 

人々が搾取することをやめ、愛し合うことを学ぶことが出来れば社会はもっと優しくなれるだろうし、戦争も起こらなくなるだろう。

これは互いを赦し合うことをも意味している。私たちはどこまでも学び続け魂の課題に向き合うことになる。やることはたくさんある。ひとつでも赦すことができれば世の中にあるひとつの悲しみや苦しみがなくなることになる。それは連鎖して愛に還元されていく。

 

 

 

 

 

搾取をやめ、ただ、与える受け取りあうことを日々学ぼう。愛と対話を広めていこう。平和を叶えよう。できることは沢山あるのだから。